日本航空(JAL)のジャンボジェット機(ボーイング747型機)が2011年3月1日、ラストフライトを迎えた。40年以上前に日本の空にお目見えしたジャンボ機は、一時期は日本の高度経済成長のシンボルのひとつだった。だが、燃費の悪さが敬遠されるようになり、新型機への切り替えが進んでいた。
ラストフライトを迎えたのは、ホノルル発のJL75便と那覇発のJL3098便。両便が13時過ぎに相次いで成田空港に到着し、大西賢社長や、歴代の制服に身をつつんだ客室乗務員(CA)らの出迎えを受けた。
ホノルル便の機長を務めた斎藤一之さん(49)は、
「ジャンボ機は同僚と言うよりも相棒。着陸した時に、『この感覚が最後なんだな』と思いました。ジャンボは、速く、高く、快適に飛べる飛行機でした」
と感慨深げだった。大西社長は、
「ジャンボ自体は日本航空の代名詞で、経済成長の象徴。このジャンボも十分に手を入れた整備をしているので、これからどこか他の空で頑張ると思う」
と、他社に売却されるジャンボ機のセカンドライフに思いをはせた。
ボジョレ・ヌーボーを大量空輸
ジャンボ機が日本の空に登場したのは、「いざなぎ景気」真っただ中の1970年。大阪では万博が開かれた年でもある。3月にはパン・アメリカン航空が初めてジャンボ機を日本に乗り入れたのに続いて、7月1日夜に、羽田からJALのホノルル行きが就航した。翌7月2日の読売新聞では、
「361座席のうち、320を埋め、約90%近い(搭乗)率を確保することができた。まず好調なすべり出しだといえる」
というJALのコメントを紹介、盛況ぶりを伝えている。
当時の新聞紙面を見ると、ジャンボ機が大きな期待と関心をもって迎えられたことが分かる。就航前年の69年8月に掲載された試乗会の広告には、
「ジャンボで始まる新しい空の時代。そのすばらしさを、あなたの目で、肌で実感してください。11月、ボーイングの工場ではジャンボの巨体にくっきりと日章旗が描かれます。赤い大きな鶴のマークが尾翼に輝きます」
と、新しい時代の幕開けを強調するキャッチコピーが踊った。
また、ジャンボ機は一度に多くの乗客を運べることから、運賃の値下げにも貢献した。例えば、ジャンボ機就航前の69年9月に掲載された広告では、ハワイ7日間のツアーが26万4600円だったが、ジャンボ機就航後の70年11月に「ジャンボで行くジャルパック」と銘打った広告では、22万7000円にまで値下がりしている。
このように、ジャンボ機は飛行機旅行の大衆化を進め、「大量生産、大量消費」の象徴でもあった。
90年代のいわゆるバブル景気には、ワインのボジョレ・ヌーボーをジャンボ機が大量に空輸してくることが風物詩にもなった。1990年には、今回退役するボーイング747-400型が導入され、最盛期の94年~01年度には、貨物・旅客合わせて約80機のジャンボ機が同社で活躍した。