米国の名門ハーバード大学の講義が、日本でもNHKテレビで放映され「ブーム」になっている。
マイケル・サンデル教授の「正義(Justice)」という授業は、毎回1000人を超える学生が出席し、同大学史上最多の履修学生数を記録。米国社会が抱える難問を取り上げ、教授と学生が熱い討論を交わす。世界各国から集まった多様な学生は、議論を通じて正義や倫理、哲学の問題に考えをめぐらせる。
日本でもテレビ放映後、関連内容の書籍が発売されると、たちまちベストセラー。哲学を主題とした「固い」内容だが、なぜ日本でも受け入れられたのか。
教授と学生で命の重みを徹底討論
「暴走列車を運転するあなたは、このまま進めば5人をひき殺してしまう。だが列車を右にそらせば、そこにいる作業員1人を犠牲にするが5人は助かる。あなたならどうしますか」
ハーバード大の大講義室をぎっしり埋め尽くした学生たちに、サンデル教授はこう投げかける。いずれを選んでも「死」が避けられないという設定に、自分の倫理観は果たして正しいのかと学生は悩む。
代理出産、命の重み、富の再分配、同性婚――。授業で取り上げる題材は「正解」がないような難題ばかりだ。宗教観や人種の多様な米国の学生は意見もさまざまで、議論は熱い。サンデル教授は古典の哲学者の考えを引用したり、検証したりしながら学生に深い考察を促す。学生の一人は授業の魅力について、「正義というテーマを勉強するのに、本で読んで覚えるわけにはいきません。大勢で質疑応答を繰り返し、ものの見方や考え方を養うこの授業はとても重要です」と話す。
講義は全米で話題となり、大学側は初めてテレビによる「一般公開」に踏み切った。日本でも、2010年4月からNHK教育が12回シリーズで放映。NHK番組広報によると、「知的好奇心が刺激された」「哲学の抽象的な話を、現代の具体的な事象に置き換えて分かりやすく説明している」などとの声が寄せられ、急きょ再放送を決定。番組担当のプロデューサーも驚いたほどで、「難しい内容をじっくり考えたいという視聴者が増えたのでしょうか」と話した。
難解なテーマだからインパクト強い
5月には、講義内容を基にした書籍が出版された。都内の書店でも「コーナー」ができるほどで、初版からわずか1か月で20版を数える。出版元の早川書房編集部の担当者は、政治不信や長引く不況で日本社会に閉そく感が漂う中、「小手先ではなく、モノの考え方を根本から見直そうという人が増え、哲学や正義というトピックに魅力を感じたのではないでしょうか」という。
サンデル教授と十数年の交流がある千葉大学法経学部の小林正弥教授は、サンデルの本がここまでヒットしたのは、テレビで講義のビビッドな討論が放映され、視聴者に強く印象付けたことが影響したと見る。教授と学生が対話しながら授業を進めるスタイルは、日本の大学では新鮮だが米国では珍しいとは言えない。だが、「命や徴兵制、生殖医療といった哲学的深みのあるテーマを、誰もが真剣に議論していることにインパクトがあるのでしょう」。政治や社会が混乱する日本で、サンデル教授の授業内容に共感し、難解なテーマを必死に理解しようとする人が増えたのではと小林教授は考える。
8月にはサンデル教授が来日し、一般参加者を招いてハーバード大さながらの「特別講義」が開かれる。「サンデルブーム」はこのまま続くだろうか。小林教授は、今後ある程度は落ち着きつつも、確実にサンデル教授の「教え」は残るだろうという。「今回、サンデル教授の考えに触れた知識層に定着すると思います。政治家や法律家といった人たちに根付くことで、日本社会全体にも広がっていくでしょう」