「ポスト鳩山」選びは、菅直人・副総理兼財務相(63)を軸に進んでいる。2010年6月4日、民主党の代表選があり、「新首相」が事実上決まる。市民運動から政界入りした菅氏とは、どんな人物なのか。
「鳩山首相の思いを受け継ぎながら、若い力も発揮してもらい、閉塞感を打ち破りたい」。菅氏は6月3日夜、代表選への立候補を表明する記者会見でこう意欲を示した。こまめに顔を左右に振りながらも淡々と話した。代表選にはほかに、樽床伸二・衆院環境委員長が立候補会見を開いている。菅氏に対しては、自らも「ポスト鳩山」候補として名前が挙がっていた岡田克也外相が条件付きながら支持を表明するなど、菅氏の支持固めが進んでいる。
ミニ遍路終え「無心に」
6月2日にあった鳩山由紀夫首相の突然の退陣表明は、7月の参院選を前にした改選組などからの不満噴出を受けたものだ。菅氏にとっては、どこか他人ごとではない、という思いもあるかもしれない。菅氏は04年5月、参院選を目前に控えた段階で民主党代表を辞任した。
自らの「年金未加入問題」で批判が高まり、菅氏は「行政上のミスだ」と主張したものの、選挙を前に「顔」を代えるよう求める党内の声に屈した形だった。年金未納が発覚した自民党の中川昭一・経済産業相(当時)ら3閣僚に対し、菅氏が「未納3兄弟だ」と、1999年のヒット曲「だんご3兄弟」にかけて激しく批判していただけに、菅氏と民主党への風当たりは一層強くなっていた。
菅氏は辞任後の7月15日、頭を短く刈り上げ白衣にすげ笠姿で徳島県にいた。「お遍路」で知られる「四国霊場八十八か所巡り」を始めたのだ。動機について「自分を見つめ直したかった」と話していた。7月25日、予定通り24か所の「ミニ遍路」を終え、「無心になれた」と笑顔を見せた。「年金未加入問題」については、辞任後ほどなく、菅氏の主張通り「行政上のミス」だったことが分かっている。1996年に厚生相(橋本龍太郎内閣)に就任した際の「大臣特例」の扱いを行政側が誤ったものだった。
厚相時代の菅氏といえば、薬害エイズ問題への対応で注目を浴びた。当時「ない」とされた行政側に不利な資料を強い指示で発見させ、行政責任を認めて被害者らに謝罪した。資料発掘などに対しては官僚側から強い抵抗があったとされ、「役人に厳しい政治家」との印象が広がり国民的人気が高まった。
「総理大臣という難行苦行」
当時から、「イラ菅」のあだ名で知られ、すぐにいらだつ性格、とも指摘されていた。菅氏が財務相に就任した10年1月には、テレビ朝日系の情報番組「スーパーモーニング」(1月7日)で、テレ朝コメンテーターの三反園訓さんが「いまはシズ(静)菅だが、またイラ菅に戻るかもしれない」と解説していた。
菅氏は財務相就任後、まだイラ菅に戻った訳ではなさそうだが、首相就任が決まったとしたら、その後はどうだろうか。鳩山首相が大きくつまずいた米軍普天間移設問題も、日米合意にはたどり着いたものの地元沖縄の強い反発は残ったままで、難問は山積している。菅氏が「ミニ遍路」を行った際、当時の小泉純一郎首相は、自分もそうした「難行」に行ってみたい気持ちもある、としつつ「総理大臣やってる限りは、この職責自身が難行苦行ですから」と話していた。菅氏は「総理大臣という難行苦行」を、遍路後の感想のように「無心」の心境で乗り切ろうとしているのだろうか。
菅氏は、市民運動から政界入りした。婦人参政権運動家として知られる、故市川房枝・元参院議員の選挙に携わるなどし、1980年の総選挙で社会民主連合公認で初当選した。現在10期目。