宮本武蔵と佐々木小次郎。二人の剣豪が対峙した「巌流島の決闘」は劇や小説、漫画にも度々描かれてきた人気がある話だ。ところで決闘は、よく知られた結末とは別の説が言い伝えられ、最近では元首相の細川護煕さんが、日経新聞で「知られざる逸話」を紹介した。
吉川英治さんの小説『宮本武蔵』。そのクライマックスとして取り上げられているのも「巌流島の決闘」だ。約束の時刻に遅れてきた武蔵は、鞘を海に放った小次郎に対し、「小次郎敗れたり」と言い放つ。抜いた刀を戻すところがないのは勝つ意志がないと皮肉ったのだ。その後、武蔵が小次郎を打って勝負あり。武蔵は一人、巌流島を後にした――。決闘は1612(慶長17)年4月13日にあった。
細川家に伝わる文書の中に記述
吉川英治さんの小説だけに限らず、巌流島の決闘をモチーフにした芝居は、江戸時代からも歌舞伎や浄瑠璃で度々演じられてきた。いずれも、小説と似たような筋書きだったらしい。
ところが、である。2010年1月29日付『日経新聞』のコラム「私の履歴書」で細川護煕さんが、武蔵の知られざる逸話を紹介した。細川家に伝わる文書の中には「巌流島の決闘」にまつわる記録が残されている。これは、細川藩家老で門司城代だった沼田延元という人物の記録を子孫がまとめたものという。
それによると、巌流島の決闘で、武蔵に打たれた小次郎は脳しんとうを起こして気を失い、しばらくして息を吹き返したと書かれている。これを知った武蔵の弟子が駆けつけ、とどめを刺したというのだ。
ではいったい、決闘の真相はどうだったのだろうか――。
吉川英治さんがもとにした史料は「二天記」と呼ばれる武蔵の伝記だった。これは、細川家の筆頭家老・松井家で二天一流兵法師範だった豊田景英という人物が、江戸時代中期の1776年にまとめたものとされている。もっと詳しく言うと、「二天記」は景英の父親がまとめた武蔵の伝記(=「武公伝」、1755年)をさらに整理して、添削を加えたものである。
子孫がドラマティックに書いたのではないか?
宮本武蔵に詳しい国際武道大学武道学科の魚住孝至教授は、「勝負の場面は、別の文書には違った話が書かれています。そして1737年に初演された歌舞伎『敵討巌流島』が当時、大変人気を博しました。大阪、京都、江戸で上演されたほどです。『二天記』にある勝負の場面は、これらの諸要素が取り入れられており、伝記といえどもフィクションの要素を含んでいると考えられます」と話す。なお、宮本武蔵は1645年に死去した。
魚住教授によると、宮本武蔵の史料の中で最も有力とされているのは、福岡県小倉の手向山にある「小倉碑文」。これは武蔵の没後9年後、武蔵の養子が父親を弔うために建立したものだ。碑文には「巌流島の決闘」に関する記述があるが、そこには、木刀をもった武蔵が三尺の真剣を手にした小次郎を、一撃で殺した、としか書かれていない。
一方、細川家に伝わった記録は「沼田家記」と呼ばれている。巌流島の決闘から60年後の1672年にまとめられたという。前述のような記録が残されているのは確かだが、魚住教授は「延元の業績を子孫が残した書物ですから、ドラマティックに書いたのではないか」と話す。
「小倉碑文」には小次郎が一撃でやられたと書かれているし、吉岡一門を一人で破った武蔵が弟子を巌流島に引き連れていたとも考えにくいこともある。仮に武蔵の弟子があやめたとして、不名誉な決闘のことをわざわざ碑文に残すだろうか、などと疑問の余地があると考えられるそうだ。
いずれにしても、巌流島の決闘が起きたその時に記された文書はないので、真相ははっきりしない。それでも、巌流島の決闘がずっと、人々の関心事であったことは間違いない。ちなみに、今は観光地となった巌流島。下関市観光産業部観光振興課でも「島では、武蔵と小次郎の決闘の寸劇を披露することがあります。その際は、武蔵が遅れてやってきて……と、いわゆるよく知られた筋書きで上演しています。吉川英治さんの影響が大きいのかもしれませんね」と話していた。