子孫がドラマティックに書いたのではないか?
宮本武蔵に詳しい国際武道大学武道学科の魚住孝至教授は、「勝負の場面は、別の文書には違った話が書かれています。そして1737年に初演された歌舞伎『敵討巌流島』が当時、大変人気を博しました。大阪、京都、江戸で上演されたほどです。『二天記』にある勝負の場面は、これらの諸要素が取り入れられており、伝記といえどもフィクションの要素を含んでいると考えられます」と話す。なお、宮本武蔵は1645年に死去した。
魚住教授によると、宮本武蔵の史料の中で最も有力とされているのは、福岡県小倉の手向山にある「小倉碑文」。これは武蔵の没後9年後、武蔵の養子が父親を弔うために建立したものだ。碑文には「巌流島の決闘」に関する記述があるが、そこには、木刀をもった武蔵が三尺の真剣を手にした小次郎を、一撃で殺した、としか書かれていない。
一方、細川家に伝わった記録は「沼田家記」と呼ばれている。巌流島の決闘から60年後の1672年にまとめられたという。前述のような記録が残されているのは確かだが、魚住教授は「延元の業績を子孫が残した書物ですから、ドラマティックに書いたのではないか」と話す。
「小倉碑文」には小次郎が一撃でやられたと書かれているし、吉岡一門を一人で破った武蔵が弟子を巌流島に引き連れていたとも考えにくいこともある。仮に武蔵の弟子があやめたとして、不名誉な決闘のことをわざわざ碑文に残すだろうか、などと疑問の余地があると考えられるそうだ。
いずれにしても、巌流島の決闘が起きたその時に記された文書はないので、真相ははっきりしない。それでも、巌流島の決闘がずっと、人々の関心事であったことは間違いない。ちなみに、今は観光地となった巌流島。下関市観光産業部観光振興課でも「島では、武蔵と小次郎の決闘の寸劇を披露することがあります。その際は、武蔵が遅れてやってきて……と、いわゆるよく知られた筋書きで上演しています。吉川英治さんの影響が大きいのかもしれませんね」と話していた。