「トゥギャザーしようぜ!」のセリフで1990年代に一世を風靡した、俳優でタレントのルー大柴さんが、再びブレイクしている。英単語を交えた独特の「ルー語」を使ったブログが2007年頃から若者の間で話題になり、NHK「みんなのうた」に自身のCD「MOTTAINAI ~もったいない~」が起用されたことがきっかけになった。
しかし再ブレイクするまでのおよそ10年間、ぱったりとお茶の間から姿を消していた。息子2人と妻とともに、その間どのように歩んできたのか、話を聞いた。
40過ぎてレギュラーなくなり、収入10分の1
―テレビの仕事が減った間、どんな仕事をしていたのでしょうか。収入も減りました?
ルー大柴 舞台中心に活動していました。年間5本のペースで出ていて、1本あたり公演と練習で2カ月かかりますから1年のうちほとんどが舞台でした。たまにイベントの仕事もしていました。収入面では、ピーク時の10分の1になって、なんとか親子4人食べられるという感じで、そんなにプアー(貧しい)ってことはありませんでしたが、ブレイクした時よりどんどん収入が減っているということは事実だし、まだ子どもも小さかったですし、これで乗り切れるのかなっていう不安はありました。
―もともと役者志望ですよね。テレビの仕事は減っても、やりたい仕事に専念できて充実していましたか。
ルー大柴 40過ぎてレギュラーなくなって・・・。でも私自身、ルー大柴というキャラクターに疲れてきて、飽きてきたみたいなところがありました。昔から役者志向だったので舞台の仕事をいただけるならやろうと思い、全力投球でやりました。その中で、また何か見いだせればいいかなとは思っていたんだけれども、なかなかね、30代の頃のルー大柴のキャラがなかなか消えなかったですし、役というよりはルー大柴を見たいというお客さんがいて、その辺がリトルビット(ちょっと)難しかったですね。
―家族の支えは大きかったですか。
ルー大柴 オフコース(もちろん)ですよ。ワイフ(妻)、子どもが僕の一番のトレジャー(宝)ですから。いまでは長男は大学を卒業して働いていて、次男は大学生で、2人とも大きくなってちょっと安心していますけれども、その当時はまだチャイルド(子ども)だったから、何とかしなきゃっていう気持ちも焦りもありました。本当によく乗り越えてこられたなっていう気がします。
―どんなふうに過ごしていましたか。
ルー大柴 時間があったので、家にいることが多くなりましたよね。家庭サービスをできるようになりました。息子がまだ小さくてドジョウを捕りに行ったりして。でも、(子どもが)グロウアップ(成長)して学校のクラブに参加するようになって、『一緒に行こうか』と誘っても、『お父さんみたいに暇じゃないんだ』と言われてガーンときたりして。買った洋服をワイフ(妻)に見せると、『あなた、昔とちょっと違うのよ』『そんなにすぐ、ばっと買うのは止めて』と言われて、ファミリー(家族)がそういう風に私を見ているんだなって言うのがわかりました。僕自身も次を探していた時期があったんですけども、じゃあ自分自身が何をしたいのか、これから何をしようかというのを自分でプロデュースすることができなかったんです。
―そこで、現在のマネージャーの増田さんとの出会いが転機になるわけですね。
ルー大柴 50過ぎてマネージャーが代わりまして、(増田さんに)『一体、テレビをやりたいんですか、舞台をやりたいんですか、ちょっと中途半端じゃないですか』って言われて。私は役者ばかで来ちゃったんで、自分でプロデュースすることはできなかったんですが、彼についてやっていったら、結果がついてきた。それがブレイクのきっかけになった僕のブログであり、『みんなのうた』に起用されたCD『MOTTAINAI』だった。ニュー『ルーマニア』(新しいファン)も増えました。
―具体的にはどんなことに挑戦?
ルー大柴 マネージャーが代わるまでは、やっていることと言えば舞台とホビー(趣味)のドジョウの飼育くらいしかなかったんです。マネージャー(増田さん)の勧めで、茶道をやりました。今でも続いています。最初は正座もできないし、苦痛でしたけども、石の上にもスリーイヤーズ(3年)、風雪ファイブイヤーズ(5年)というように、続けているとだんだん自信もつきますよね。振り返ってみると、人間1人で生きていけないっていうことと、苦言をくれる人が周りにいるのは幸せなことだと思います。その人が若いとか年取っているとか、そういうことじゃなくてね。あとは、聞く耳も持つことも大事です。自分の未熟さをおぎなって、2人スリー(3)脚でやってきたことがよかったんだと思いますけど、ドンチューシンクソー(そう思いませんか)?
―マネージャーの勧めとは言え、50歳を過ぎて新しいことにチャレンジすることを決めたのはルーさん自身ですよね。
ルー大柴 ライフ イズ ワンス、人生1回きり。ここでやるかやらないか、っていうターニングポイントってあると思うんです。私の場合、紆余曲折で、マウンテン(山)ありバレー(谷)ありで来ましたけれども。ターニングポイントがいくつかありますが、その1つが53歳の時だったんですよ。そういう運命だったんじゃないかな。少しずつやっていったら、結果がついてきた。自分で言うのも何ですけども、それが再ブレイクになった。