中川昭一元財務・金融相が2009年10月4日午前、東京都世田谷区の自宅寝室ベッドで死亡しているのが見つかった。死亡時刻は3日の23時前後と見られるが、目立った外傷はなく、事件性は低いと見られる。現在のところ遺書なども見つかっていない。
ホームページでは「決意表明」も
あまりの突然の死に、政界関係者も動揺を隠せない。中川氏の父、一郎氏の秘書だった新党大地代表の鈴木宗男衆院議員は、「驚きと悲しみでいっぱい。この政治の世界、私自身の経験も含めて、つくづく厳しいものだと思う」と大粒の涙を流しながら語り、麻生太郎前首相も「自民再建に向け、大事な人材だった。言葉にならない位にショック」とのコメントを発表している。
中川氏は衆院選の落選2週間後、09年9月14日にホームページを更新。そこでは、「予想通り『危ない政権の危ない日本作り』が着々と進んでいる」と民主党などを批判。そして、
「私は今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」
と前向きな表現で締めくくっていた。ただ、それ以降の更新は見られない。
落選の「ショック」引きずっていた?
4日のテレビ朝日「サンデー・スクランブル」で、コメンテーターのテリー伊藤さんは、
「インタビューの際、こちらからの質問をメモしてくれるような(真面目な)人。そういう人は政治家にいなかった。本当につらい」
と、その早すぎる死を惜しんだが、同番組に電話で出演した政治アナリストの伊藤惇夫さんはこんな指摘をしている。
「選挙後に後援会の総会があったが、そこに中川さんは出席されず、落選のショックを引きずっているといぶかる声もあった。(次の選挙についても)ご本人の意思が周りの人たちに伝わってこなかったようだ」
中川氏は83年、一郎氏の急死を機に衆院選に出馬し、初当選。以降、衆議院議員を8期つとめていた。小渕内閣で農水相として初入閣、その後、経産相、財務相と主要閣僚を歴任し、将来の首相候補とみられていたが、09年2月、ローマで開かれたG7(先進7か国財務相・中央銀行総裁会議)で、もうろう状態で行った会見が批判を浴び、財務相を辞任。同年8月末の衆院選で落選したばかりだった。