朝日新聞阪神支局が1987年に襲撃を受け、散弾銃で小尻知博記者ら2人が殺傷された事件で、「実行犯」を名乗る男性の「告白」が週刊新潮に掲載された。事件は、2002年に公訴時効を迎えている。「実行犯」というのは本当なのだろうか。
「私はあくまで『実行犯』」
朝日新聞阪神支局襲撃事件(メモ参照)は、「警察庁指定116号事件」として知られる一連の朝日新聞襲撃事件の中で、唯一死者が出た事件だ。「赤報隊」を名乗る犯行声明が報道機関に送られ、「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」などと「思想犯」であることを伺わせる言葉が書かれていた。一連の事件はすべて公訴時効を迎え、大きな謎をかかえたままの大事件として記憶されている。
週刊新潮は最新号(2009年2月5日号)で、「私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した!」と題した記事を6ページに渡り掲載した。自らを「実行犯」と名乗るのは「島村征憲(65)」という人物だ。詐欺容疑で逮捕され「今年1月4日に網走刑務所を出所したばかり」。「私はあくまで『実行犯』」「頼んできたのは、ある公的な組織に属する人物」「正直に言うと、動機は金だった」などと語っている。「赤報隊」を名乗る声明文を書いたのは「私ではない」とも話している。阪神支局襲撃だけでなく、静岡支局爆破未遂事件など「4つ」の朝日新聞襲撃を「実行した」と告白している。1987年の事件前、85年ごろ「当時、池袋で(小さな)右翼団体をやっていた」という。ほかに、事件には島村氏の団体の「若衆」と、関西の暴力団組長に「回して」もらった「20代」らが登場する。
事件当日については、近くの「アジト」からバイク2台で島村氏と3人が阪神支局へ移動したとしている。島村氏1人が編集室へ向かい、「ドアをそーっと開けると、耳に入ってきたのはテレビの音」。さらに「持っていった散弾銃は『水平二連』というタイプのもの」「もう1度覗いてみても、やっぱり頭は2つしか見えない」などと続くが、「よしっ、これはいけると思ってパッと飛び出したのです。(以下次号)」という所で今回の記事は終わっている。
朝日新聞記者も「会って直接取材」
また、「告白」記事の中では、事件のとき一緒だった「若衆」が後に自殺したことがきっかけで「いつか時が来たらこの事件の真相を表沙汰にしなければならない」という思いがあったとも明かしている。また、網走刑務所へ入った後に朝日新聞側と接触を試み、06年に刑務所で朝日新聞の記者と「特別面会」したとも明かしている。週刊新潮の記事は、「次号」へ続くため、「告白」の全体像はまだよく分からない部分もある。
週刊新潮の「告白」記事について、朝日新聞はどう受け止めているのだろうか。J-CASTニュースの取材に対し、朝日新聞広報部は次のように答えた。
「告白」している人物からは、「2005年から06年にかけて朝日新聞社に『襲撃事件の実行犯』と名乗って手紙が届いた」という。朝日新聞記者がこの人物に会って直接面会、取材した。また、週刊新潮からの問い合わせ(09年1月)に対しては「面会内容やこれまでの取材結果から、この事件の客観的事実と全く異なる点が多々ある」と回答している、という。また、「告白」中に出てくる「朝日記者が面会時に『喧嘩腰で怒鳴る』などとある点」については、「そういった事実はありませんでした」。
朝日新聞の回答は、全面的に「告白」の信憑性を否定しているように受け取れる。次号の週刊新潮には、信憑性が確認できる中身が掲載されるのだろうか。
(メモ:朝日新聞阪神支局襲撃事件)1987年の憲法記念日である5月3日夜、男が朝日新聞阪神支局(兵庫県)に侵入し、散弾銃を発砲し、小尻知博記者(当時29)を殺害、犬飼兵衛記者(同42)に重傷を負わせた。88年3月の朝日新聞静岡支局爆破未遂事件などいずれも「赤報隊」を名乗る犯行声明や脅迫文が届けられ、一連の事件は警察庁指定116号事件として知られる。阪神支局襲撃事件が2002年5月に公訴時効となるなど、一連の事件すべてが公訴時効となっている。