新聞記者は会社官僚制の中で埋没 だから新しいニーズを掬えない
(連載「新聞崩壊」第9回/新聞研究者・林香里さんに聞く)

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わかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念

――ロイター通信に3年おられました。英国と日本の記者は違いますか。

   英米の記者は最後までペンを持っています。日本みたいに一定の年齢になると販売や企画に回されるなんていうことはほとんどありません。書く人は、最後まで書いている。また、生涯ずっと1社にとどまる人は、ほとんどいません。数年したらステップアップのために別の会社に移るのが普通です。担当分野を変えずに、会社を替えるのです。記者は、自分の得意分野で業績をあげ、それをベースに会社を移っていきます。

――地方紙の記者を経て、ニューヨーク・タイムズなどの大手紙に就職する、というケースもありますね。

   私の知人に、ロイター→ビジネスウィーク→ニューズウィークというキャリアを辿った人もいます。新聞記者は、週刊誌記者ともインターチェンジブル(交流可能)なんです。

――新聞記者自身も迷っています。

   良心的な人ほど迷っているでしょう。それはやはり、彼・彼女たちが、マスメディアの巨大システムと自分の個人的良心や信条との摩擦を感じているからでしょう。社内では、新しくチャレンジをしようとする士気が低くなっているようだし、また、そういう取り組みを評価するシステムもない。しかし、長期的にはそれを作っていかないと元気な若い人が来なくなる恐れがあります。

――(新聞読み比べサイト)「あらたにす」の新聞案内人をなさっていますね。朝日・読売・日経を読み比べてみて、内容に差はあるものですか?

   「あらたにす」を見ると、日経は事件報道については落ち着いた報道をしていることに気づきます。事件・事故を、距離を置いて観察している。「経済」という専門性が、そうした冷静さを正当化できるのでしょう。しかし、朝日・読売は、「一般紙」だから、なにか事件・事故が起きると突き放して見ることが出来ず、つい現場で警察と一体となって報道合戦に参加してしまっている。そして、いつも事件に何かわかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念をもっているようです。もちろん、いい意味で意味づけをしてくれればいいのですが、どうもそういう例が少ない。例えば、最近起きたインドのテロ事件では、亡くなった1人の日本人の周辺の話題ばっかり。実際は非常に多くの人が亡くなっているはずなのに、残りの人のことはまったく報じず、一人だけに徹底的にこだわる。これっていったい何なの?!って思いますね。さまざまな現象について、もうちょっと距離をもって報道しようとする姿勢があってもいいのではないでしょうか。プロとして要求されるニュースの選択や価値判断、ぜんぜんされていませんね。思考停止のナショナリズムとセンセーショナリズムが目立ちます。

――新聞はこれからどうしたらいいでしょうか。何かいいアイデアはありますか。

   ありません。でも、全国紙は部数が1000万とか800万。押し紙があるとはいえ、多すぎますよね。これではどうしても大衆迎合になってしまうのではないでしょうか。近年、全国紙自身が「新聞は変われるか」という問いを立てているようですが、しかしたいていその解には「規模の縮小」という選択肢は入っていません。全国紙は、部数はこのままで、でも変わらなくちゃ、と考えているけれども、ちょっとそれは虫がよすぎるのではないかと思います。いっそ小さくなって、とんがって、出直すっていう選択もあるのではないでしょうか。おもしろいジャーナリズムを考えるなら、そのぐらいの踏ん切りがないとダメなのかもしれません。そうして、日本各地の地方紙も、全国紙のライバルとしてしっかりと自信を取り戻して、いま以上に丁寧に地方や地域からの発信力を強化していってほしいと思います。

林香里さん プロフィール
はやし・かおり ジャーナリズム研究者 東京大学大学院・情報学環准教授。ロイター通信東京支局記者、東京大学社会情報研究所助手、独バンベルク大客員研究員を経て現職。専門はジャーナリズム・マスメディア研究。朝日、読売、日経3社共同の新聞読みくらべウェブサイト「あらたにす」で「新聞案内人」を務める。著書に『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』「『冬ソナ』にハマった私たち」など。

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