あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
東京めたりっく通信TMCがADSLで点火したブロードバンド闘争の松明は決して燃え尽きることは無かった。むしろこの組織が志なかばで実質消滅した今から7年前を起点としてこの松明は日本中を覆い尽くす巨大な火柱となって燃え上がることとなったのである。7年前の2001年といえばまさに21世紀の幕開けであり、NTTとソフトバンクとが共にADSLサービス事業に本格的進出を開始した日本ブロードバンド通信元年として記憶されるべき年である。それからたった7年という短期間に、日本の情報通信インフラはその存在様式を大きく変貌させた。一言で言えば、「欠乏」から「余剰」への変貌である。
有線系であればメタル線でも光ファイバーでも常識的な価格で存分に利用可能であり、無線系についてもこの変貌の真っ最中である。ここにブロードバンド闘争と筆者が名づけた戦いの本質がある。すなわち、欠乏していると認識されていたものが実は本当の欠乏ではなく、知的怠惰による錯誤でありよこしま心が生んだ偽情報でしかなかったのである。この知的怠惰やよこしま心に既得権益の擁護が重畳したところ「欠乏」の理論が強固な壁としてブロードバンド元年に立ち塞がっていたのである。従って、ISDNをADSLに置き換えるためには、この「欠乏イデオロギー」を吹き飛ばす「闘争」が不可避であったのである。
「欠乏は過去の亡霊で潤沢こそが現在であり未来でもある、ユーザーよ騙されるな」と荒野に立つ予言者を演じたのである。1メガ通信スピードで使い放題月額固定料金5千円、当時にしたら世迷言として一蹴されたインターネットサービスを実際に実現してみせる、この「論より証拠」の戦いこそがTMCが引受けた運命的ミッションであったのである。光ファイバーや無線系の場合も同工異曲であったことは言うまでもない。2001年以後、ソフトバンク、イーアクセス、アッカなどのブロードバンド闘争参入者は、見事に「欠乏」を「余剰」に変える本格的な戦いを挑み、TMCの「予感」を「実現」してしまったわけであり、実に感慨無量である。
もっともここで言う「余剰」は、あくまでも定性的なことを述べているのであって、定量的には「余剰」の閾値は様々な判断が可能であることを否定するものでない。だが私がこの「欠乏余剰論」で強調したいことは、情報通信技術(ICT)というものは、本来、こういうものではなかろうかという所にある。巨万の資金を投入しさえすればICT立国が可能であるというのは明らかに虚妄である。
電々ファミリーに延々と国力を投入した結果、今やIP技術に遅れを取って、世界に持ってゆける技術は正直皆無ではないのか。しかし、ブロ-ドバンド闘争の貴重な経験は、国家的な財産である。これに費やした公的資金はゼロ、それでも世界に誇れる通信インフラを築いた達成感を国民あげて共有できたことは、何とも心強いかぎりではないか。非資源国の我が国がこれから心がけるべきことは、ICTの欠乏を余剰に転換させる決定的な戦略産業として育てて行くことである。通信から離れても、成すべきかっこうな課題には事欠かないはずだ。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。