【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
54.孫正義氏との交渉が始まった、彼は慎重だった

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あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   その週末であった。小野氏から、急な連絡が入った。なんだろうと話を聞いてみるとソフトバンクグループの中で事態が急展開しているとのことだ。TMCの買収元が、SBIからソフトバンク本体に切り替わったという。孫正義会長が直々に乗り出し、交渉権を北尾社長の了解のもとに譲り受けたそうだ。

   そして、翌日の土曜日から、孫氏自身がTMCの全役員や執行役員との面談を開始するというのだ。私は2年前の暮れ以降、彼には全く会っていない。彼が我々の動向を注視していたのは大方察しがついていたが、見事といって良いほどに接触は途絶えていた。だから、孫氏の周りで何が起こっているのか、我々には皆目見当がつかなかった。

   これはソフトバンクグループの中でも同様であったようだ。彼のADSL事業への大規模な進出計画は、彼と彼の側近だけに限られた完全な機密事項として進んでいた。だからSBIの役員会での会話でも、あれは独立した話、よくある孫会長のホラ話という程度の扱いをうけたのだろう。

   TMC内では、小林君が、その頃ちょくちょくソフトバンクに出入りしていて、孫さんがどうやら本格的にADSLを始めることは確かなようだと情報をくれてはいた。

   しかし、その情報の信憑性は極めて乏しく、前年のスピードネット騒ぎを目撃していた我々にとって、半信半疑の状態であった。もし、本当なら、何故TMCを完全無視しているのか、小林君を通してであれ、買収話がなぜ出てこないのか、理屈が通っていない。

   だが、孫氏のTMC完全黙殺は、計画的で意図的なものであることが直ぐに判明した。他の会社を買収してそれを軸にして事業展開を図るなどいう生やさしいものではなかったのだ。

   自己の全財産と事業家としての生命を賭けて、ようやく白みかけたブロードバンド通信事業の夜明けへの本格進出を決断していたのだ。Yahooを道連れにしようという枠組みも、2年前には聞けなかった話だ。それだけ、時代が変わっていたのだ。その決意が固まり、いよいよ実行という段で、やっとTMCの処遇を考えたというのが真相であろう。その時、橋本氏の配下以外、ソフトバンクグループの一部にTMC買収寸前という話が伝わり、グループ内の全面調整に乗り出したものと思われる。

   或いは、このような動きが自グループ内にあるように、社外にもあることを察知して、対抗勢力への転化を事前に食い止めたかったのかも知れない。

   さらに、もっともらしい話もある。実は、筒井君だけでなく、かつて私の元にいた宮様も孫氏の側近チームに組み込まれ、彼らが、TMC無価値説をしきりに吹き込み、完全黙殺を貫かせたのだという話があったと聞いた。

   だが、孫氏はそれほどの馬鹿ではない。それよりも、TMC買収のもたらす政治効果を狙ったという方がもっともらしい。覇者としての誰からも尊敬を得る振る舞いである。

   しかし、こんな理由を詮索することは私にとって当時どうでも良かった。SBIとの間で了解していた経営譲渡契約の内実を防衛できるのかどうか、これが私のその時の最大関心事であった。

   翌日の土曜、孫氏と同社の経営幹部が陣取る赤坂近辺のホテルに我々は出向いた。久々に孫氏に会う。その隣にはYahooの井上社長も同席していたのに驚いた。挨拶がわりに2年前のことを私が持ち出すと、孫氏は生真面目に自分が本格的なADSL事業に進出する決意に至った理由が3つあると、次のように説明した。

1.MDFが開放されたこと、だがこれだけでは十分ではない、NTTの抵抗が予想されるからだ。
2.公正取引委員会が動いたこと、これで抵抗に歯止めがかかった。しかしこれでもまだ十分ではない。通信コストがかかりすぎる。
3.NTTダークファイバーが開放されたこと、これで採算性が見えた。

   だから決断したという。何という慎重さであろうか。また、何という自信であろうか。我々トップ引きとはまったく違った重々しさがそこにあった。

   買収条件を切り出すと、君たち先覚者の株は原価(額面)で、その他投資家株主も同じ価格でというベンチャーキャピタルには厳しい答えが返ってきた。

   また、繰延べ債務についてはその全額を、責任を持ってソフトバンクが返済するとの約束も取り付けた。社員雇用の維持と顧客サービス継続はいわずもがなである。ただし、私と小林君の辞任に関しては、前提としてくれとのことである。

   小林君や主要外部株主の了解を前提として原則合意を伝えると、破顔一笑、やや芝居がかった口調で自分たちは、めたりっくが、かかげた松明を継ぐ者であると我々のこれまでの健闘を讃えてくれた。そして、明日、早速に、私と小林君両名と株式譲渡の契約を交わそうということで、このトップ会談は終了した。

   その後、彼はTMC主要幹部と事業内容の聞き取り調査に向かった。疲れをみせず精力的な姿勢が印象に残った。こちらは、疲れが一時に出て、手持ちの煙草を一本残らず吸いつくして、やっと一息ついた。

「事は成ったのである。」

   ハゲ鷹に食い荒らされたり、NTT地域会社に吸収される悲惨と屈辱の危機は去ったのだ。個人破産する危機が消えたことも嬉しかった。家族の顔も浮かんできた。しかし、感慨に耽っていられる暇はない。

   私は井上氏と立ち話を交わし、主要株主の了解を取りに回らなければならない。ただ、この立ち話で、

「あまりやりたくなかったんですが、大変ですよ。」

という飾らない本音を聞けて、始まろうとしていることのとてつもない困難さに思わず息を呑んだことが忘れられない。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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