あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
TMCの経営陣と幹部社員にはNTT出身者が多くを占めていたことは既に何度か記した。当然、彼等はNTTの社内事情に精通し、社内人脈も豊富だ。
その中の1人から、NTTコミュニケーションなら大規模な出資を受けられるかも知れないと告げられた。私はその話を聞いた時、我が耳を疑った。たとえ前年の会社分割で、他のビジネスユニットと比して小規模になったとはいえ、コミュニケーションはNTTグループの中核を担う企業だ。NTTの独占を打破するために立ち上がった我々になぜ塩を送るのか解せなかった。しかもATM通信料金支払問題では我々はNTTコミュニケーションとの死闘を繰り広げている最中ではないか。
勿論、思い当たる節もあった。昨年来、NTTコミュニケーション内で、開明派とでもいうべき中堅幹部の1隊とは良好なビジネス上の関係を結んでいた。そのビジネスとはNTT地域会社がADSL事業に本格進出しない場合、ないしはそれに順ずる場合に、TMCがNTTコミュニケーションにホールセールスサービスを(OEM)を提供するというものである。
NTTコミュニケーション傘下となったISP、OCNが取りまとめをするので、エンドユーザーの数、ライン数は馬鹿にならない量になる。恩人であるKDDとKCOMを優先すべきは当然だが、駒を多く張るという意味で、この商談もあえて異論を差し挟まなかった。加えて、NTTコミュニケーションの技術上の要求水準は厳しかった。大量収容によるライン単価極小を目指すTMCの技術戦略は評価されたが、その実態は社内ならともかく、とてもOEMサービスとして外部に安心して出せる段階には程遠かった。それは私にも良くわかっていた。だから、KDDの共に育とうという姿勢は組し易かった。
NTT地域会社が、頑固で意固地、ちょっと古臭く、手堅い技術を駆使したフレッツADSLの投入したことにより、この商談や友好関係は水に流れた筈であった。
しかし会社存亡が問われるこの際だ。出資しようという話に乗らないわけには行かない。NTT地域会社でないなら、我々の大義を通せる余地はあるかもしれない、こんな思いで私はNTTコミュニケーション中枢の人物と会談を持つことになった。
だが、相手の態度はとても密議を凝らそうという体ではなかった。私が期待していたのは、NTT地域会社との来るべき全面的な対決にむけ、フレッツに依拠しないADSL網が欲しいという断固とした態度である。NTT解体を真の意味で達成できる端緒を掴みたかった。だがそんな姿勢は彼らにひとかけらも伺えない。やれ、海外のM&Aに大失敗して1兆円に近い損を出したの、アッカへの出資が優先でTMCの分は残っていないだの、取りとめのないぼやきを聞かされただけで終わった。
何のための会談だったのか、訳がわからなくなった。社内NTT組の事前解説によれば、NTTコミュニケーションと地域会社とはお互いを最大のライバルと見なし、それぞれ欠けているもの、すなわち地域アクセス網と長距離通信網とを自前で調達する経営戦略をもって竜虎の戦いを始めるということであった。
だが、私が現実に目にしたものは、その経営意志が「お買物」の陳列リストとして流れ出てきたものでしかなかった。そんな経営意志がそもそもあり得ないという方が正しい。 この会談は義理の上で会うには会ったが、TMCは駄目よ、と間接的に示唆したものと判断できた。
また、これに懲りずに日参陳情すれば、ひょいっと大金が出て来ると判断しようと思えば判断できた。だが、それは願い下げだった。まさに我々が最も忌み嫌う「NTT経営陣の権力への意志」への無条件降伏を表明することに他ならないからだ。これだったらさっさと稲盛氏に頭を下げに行く。同席したNTT組も同様な感想を持ったようだった。まるでお話にならなかった。
TMCのNTT組がNTTコミュニケーションとの連携を模索したがった心情は理解できる。NTTを外部からでも改革できればとの思いが伊那実験組などに比べればつとに強かったのだろう。しかし、次世代公衆網はNTTの亡霊からではなくその遺体を肥やしにして生え出てくるものなのだ。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。