【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
46. 金庫の中はからっぽ 最後の資金集めに走る

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あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   あれだけ固いと思われていた上場も制度融資もついえ去った。

   金庫の中はからっぽで債鬼の群れがうろつき出した。市中銀行からの借り入れを試みたが、あの呪われたメインバンク三和銀行の上野支店はビタ一文貸そうとはしなかった。

   毎月2億、3億と売上金が入金し始めていたのにもかかわらずこの仕打ちであった。立派なものである。こちらも馬鹿らしくなって早々にこの銀行とは縁切りをしたかった。

   だが決済機関として登録公表していたために、これもかなわなかった。本社を置いていた八重洲周辺の他の金融機関は、数百万円規模なら短期資金を融通してくれたのだから、遠い親戚より近い他人という諺を思い知らされた。

   何にせよ、自力での新たな資金集めに乗り出さねばならなかった。前年に成功した第三者割当増資の二番煎じは無理であることはっきりしていた。時代の空気がまるっきり変わってしまっていた。あの時はバスに乗り遅れるなという投資家と事業会社でごったがえしていたが、その盛況は今はない。

   それでも増資計画は立てた。第三者割当増資方式でなく株主割当増資方式とした。1株に対し0.4株を割り当てた。株価は5万円である。前年末に4倍の株式分割をしていたから、実質20万円の株価で発行したことになる。前年の募集株価の10分の1である。全株主に応募してもらえれば、43,120株が売れ、会社には21億円強の資金が集まる。この増資の趣旨は、TMC株主の自己防衛本能に訴えかけるもので、株式を紙ペラにしないためには、もう少々の買い増しが必要ですよと呼びかけたものであった。この増資の計画から完了には延々と時間がかかり5月末締め切り時点での応募株式数は4,918株、増資金額は2億4千5百万円であった。焼け石に水であった。株主にも見放された。

   だが、最後の一戦には、水筒1本程度の真水は必要である。最後の資金集めはいよいよ地縁血縁の動員により達成した。この真水でなんとか次の展開まで会社をもたせてみせる、そんな決意であった。

   まず私が個人資金の幾ばくかを投入した。数理技研からも社長の中村君にお願いし、資金供出を了解して貰った。さらに事情を察した幹部社員からも借り入れた。また、創業初期以来投資をうけ今や運命共同体に近い親近感を持つに至っていたジャフコ、三和キャピタルからは村瀬社長、中村社長の決断により創業者株の一部を担保として借り入れることとした。日本の長いベンチャーキャピタル史上初という投資先への融資というスキームがこうして実現した。こうした必死の金策で6億円を越える独自資金を何とか掻き集める。

   ちなみに、この縁故借入金の構成は以下のようであった。

【縁故借入金】
(借入先)        (金額) (単位:千円)
数理技研         300,000
JAFCO           175,500
三和キャピタル       58,800
東條 巖           50,000
社員有志          23,000

   この6億円は、1月から6月までの半年、ここぞという時にチビチビと効果的に使った。最後まで社員給与の遅配、欠配をまで起さないで済んだのもこの最終資金のおかげであったと思っている。驚嘆すべきは、この段階で、まだ我々は希望を捨てなかったという執念深さである。この執念が消えていたらTMCは早々と白旗を掲げていたに違いない。


【お詫び】
10月15日掲載の「ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語」は「45. NTTの借金取り立てはきびしかった」を掲載する予定でしたが、誤って16日掲載予定の「46. 金庫の中はからっぽ 最後の資金集めに走る」を先に掲載してしまいました。改めて、同日2本の記事を掲載しました。お詫びいたします。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

連載にあたってはJ-CASTニュースへ

東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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