【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
41 テレビコマーシャルに打って出よう

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あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   ADSLサービスの存在を一度は電波で訴えたい、社内でこんな希望が生まれたのは都内50万回線の年内提供に目途がつきだした2000年の秋口であったと記憶している。

   テレビコマーシャルが高価なもので駆け出しのベンチャーが簡単に手を出せない高根の花であることは我々も重々承知していた。

   すでに拡販については、インターネットを利用した直販力の強化や代理店の組織化、さらに大手ISPへの卸し実現による大量ユーザー獲得などの諸活動が一斉に開始されていた。

   また、それまでの専用線をSDSLで置き換えるという法人対象の営業も軌道に乗りつつあった。いずれも従来の通信事業者の定石的手法であり、TMCには創業時代の幹部社員の周辺にこうした営業拡販の経験者が徐々に集まり出していた。

   それに加えて、TMCのメディアへの露出度は物珍しさと広報活動の充実もあってこれ以上望めないというほどに高かった。ネームバリューも相当に上がっていた。それなのに何故TVコマーシャルという重火器を更に繰り出さねばならなかったのか。

   それには十分な理由があった。情報通信において時代を画するような新サービスは、それが既存市場の構造破壊的な性格を帯びるなら、画期的な売込方法を伴って登場する。否、登場せざるを得ない。何故なら、従来の販売チャネルは既存通信事業者との共存共栄のうちにあり、新サービスに既存通信事業者が敵対的ないし競争的であるなら、使いものにならないからである。その画期的な売込み方法の典型が、携帯電話市場におけるかの「光通信」のケースである。

   携帯電話ショップの出現も電話機1円販売も、ドコモ独占の牙城を切り崩す決定打となった。通信サービスが電話局窓口でNTTにより販売される時代を過去のものとした。また、後のソフトバンクによる街頭パラソル部隊の出現は、ショップすら飛び越えて、無料でモデムを通行人にばら撒くという破天荒な拡販方法を一般化した。従って、TMCもただ万全と常識的な売込み手法のうちにあっては、販売力によりNTTに何れ蹴散らされることは予想できていた。

   勿論、2番手、3番手の位置で甘んずるなら話は別であるが、我々が目指したのはあくまでも1番手であった。実際に、2000年のうちは商用試験サービスユーザーのシェアはTMCが過半数を超えて断然のトップの位置にあった。

   我々が選んだ画期的な売込方法とはTVコマーシャルによる電波攻勢であった。この発想は先に名の出た信国君、数理から移籍した松下恵進君、広報の川村氏から出てきた。

   これが吉と出るのか凶と出るのか誰にも分からなかった。ただ、高速性と常時接続を売り物としてテレビ画面上で視覚に訴えることは、ADSLサービスの存在を広範囲に短期間でコンシューマに周知する極めて効果的な手法であることは確かだった。

   短期間性にこだわったのは、この頃、NTTも本格サービスに参入する見込み大とする信憑性の高い各種情報が我々に集まり出していたことも大きい。

   販売網は未熟でその成熟にはまだまだ時間がかかる。50万回線敷設で圧倒的な供給力の優位を確保している間にどれだけ多数のユーザーを獲得するかが決定的に重要となっている。勝負はにわかに短期決戦の様相を呈してきたのである。

   こうして、ほぼ4億円弱のなけなしの現金を投入して、この年の10月から11月まで、TVコマーシャルに打って出ることとなった。

   おそらく通信事業者としては初めてのTVコマーシャルであったのだろう。

   広告代理店からは驚きをもって迎えられたようだ。コマーシャルの出来栄えや視聴者の反応はどうであったか、もう今となっては思い出の彼方である、ただ、10月、11月にメガアクセスサービスの申込者が急増したことは印象に残っている。

   何故DDI、日本テレコムが拡販のために組んだように、光通信のような販売プロ集団とTMCは思い切って手を組まなかったのか。あるいはソフトバンクが繰り出した非合法すれすれの必死の戦術を編み出さなかったのか。

   これについて当然出てくる疑問に答えておくと、実は、光通信からは業務提携の申し出があったのだが、熟慮の末にこれを断ったいきさつがあったのだ。とある日、私と小林君の高校時代共通の友人が、光通信重田社長側近との会談を密かに設定してくれた。提携関係に入ればこちらの販売力の脆弱さを補って余りある本格的な営業力が確保できることも、光通信の資金力が磐石の後ろ盾となることも、どちらも十分に納得できた。

   彼らが新商品、新サービスに飢えていることもよく分かっていた。悪い話ではなかった。こちら2人は光通信に対して、一般的な警戒感はあっても、特別な恩讐はない。しかし証券市場の悪玉という評価は良く知っていた。

   業務提携ありとの考えで社内に戻ると、ここで強烈な抵抗を受ける。案の上、TMCの株式上場時における光通信との業務提携は決定的なマイナス要因となることは必定。資本関係でも持てば、むしろ上場させぬように動くとすらジャフコから来て非常勤取締役となっていた徳永さんから猛反対された。

   うん、この会社の資金はベンチャーキャピタルが大部分を出している、まずこの恩を返してからだなと私たちは引き下がった。今まで苦労を共にした利害関係者の意見を最優先して、我々はこの話を断ることと以後の接触を断念することを約束したのである。

   潤沢な資金があれば、光通信に限らず、他の強力な販売パートナーとの共闘関係は十分に成立可能であったろう。しかし積滞や全国展開をかかえた段階で、こうした提携に踏み込むには、他の例のように恐らく10億円規模に達するであろう販売支度金を提示する財力が我々にはなかった。それよりも、TVコマーシャルの効用は明解で手っ取り早やかった。いわば、「貧者の核兵器」の例えのように我々は唯一購入可能な重火器、電波の波及力に賭けた。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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