【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
38. NTTのお役所仕事が開通渋滞を招く

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   2000年の7月からサービス提供地域が着々と拡大、TMCは顧客の獲得に本腰を入れ始めた。顧客獲得でもトップ駆けを果たそうと社内の意気は上がっていった。ダイレクト販売で年末までに個人マーケットでは3万人を、法人ユーザーは1千社を獲得する目標を掲げた。

   個人は主としてホームページを経由してのメール申し込みで、法人ユーザーは営業マンを繰り出す個別対面営業で獲得できると考えた。

   だが、現実には1月平均ほぼ5千ユーザーにADSL回線経由で当社のNOCに収容するという当初の数字が何を意味するか、この開通オペレーションの困難がいかほどのものか、我々の想像を絶する困難が待っていた。

   因みに、この計画の根拠となったのは「事前申込」というキャンペーンによって仮申込みメールの受信で我々が掴んだ数字であった。

   また、この計画が達成されれば、単月営業販売利益は来年早々には黒字に達し、来夏予定の上場をクリアするに十分な収益構造をもたらすという目論見であった。

   我々のサービス名称「メガビット・アクセス」の月会費は最低で5,500円であったから、この3万倍の約1.5億円が損益分岐点と見ていたのだ。

   一時的に発生する入会金を売上に追加計上すれば、キャッシュフローも改善されるものとあれこれ算段していた。

   この目標達成のため、我々は各月20人程度の新入社員の公募を開始した。主として開通オペレーション要員と個人・法人を開拓する営業要員の不足が目に見えていたからだ。

   ストックオプションも付与する高待遇を用意し、ブロードバンド新世紀での活躍を呼びかけた。

   また、受付苦情処理などのインタラクティブな顧客サービスに対しては、人材派遣会社から派遣社員にほぼ全面的に任せた。こうしたオペレーション・ラインは平野君配下の信国君や大森君などの新世代に全面的に権限を委譲し、執行役員会をあらたに発足させて社長、会長は社外活動に専念する態勢をひいた。

   更に、これまでの6局体制で用いたDSL機材を100局体性に対応したより機能強化されたDSL機材へと転換する必要もあった。

   国産品も捨てがたかったが、シャスタ同様のライン単価極小というというコスト管理戦略の面から、プロマトリー社製のDSLAMとモデムとを選択し万単位の大量発注をかけた。法人用のSDSLも年明けの接続交渉でNTTから了解も取りつけ、ADSLとSDSLとの共存サービスも実現した。こうして、考えられ得る限りの準備を整え、秋の陣に臨んだのである。

   だが、我々を待ちうけていたものは「積滞」と呼ばれるNTTによって不作為の作為として仕掛けられた「罠」であった。積滞とは、申込みから開通に至るまで実に延々と時間がかかり、サービス開始待ちの顧客が大量に発生する事態の事を云う。この事態を解消するため、その年の7月から11月迄のほぼ6ヶ月間、我々が実際に開通できた数は月平均1千ユーザーに留まり、当初の計画を大きく下回ってしまった。12月以後、この積滞はやがて解消に向かい、月5千回線の開通実績を上げられようになったのは翌年の3月になってからだ。

   この接続手続きに開通事務に時間がかかりすぎる問題について、NTTは自らが仕掛けたとは認めなかった。

   ADSL相互接続制度や細部規定は未完成、だから社内規定は不在、従って開通に時間がかかるのは当然という対応である。無作為の作為と呼んでも良いだろう。この作為を打ち破る手立ては全くなかった。多勢に無勢という現場の力関係に組み敷かれた状態だ。

   後に述べる公正取引委員会の一撃とNTT自身の内部的必要が生じなければ、この無作為の作為は何時まで続いたことであろうか。ちょうどの他の要因も重なってこの積滞は経営の息の根を止めるくらいの致命的な打撃となっていった。

   積滞によって失ったほぼ2万と見積れる顧客は二度と取り戻せなかったのである。

   積滞の実情について、煩わしいところは端折って、簡単に振り返ってみよう。

   まず思い浮かぶのは申し込みから開通に至る迄、大体5回程度繰り返される相互の事務処理が電子処理ではなく全て紙及びファクシミリベースで行われたことだ。これに関しては、手間が掛かるので、我々は再三、電子化の要請を行ってきたが、無視され続けた。これが、全面的に解消するのはその年の12月になってからだ。

   だが、何より参ったのは、今では多分廃止されと思うが、ADSL申込電話番号の厳密な所有者本人確認であった。

   NTT記録上の電話名義人と申込者とが一致しなければ、文句を言わせず、我々の調査申し込みは片端から刎ねられた。名義変更や申込人変更の手続きにたじろぎ、この時点で、サービスを申し込んだ人が諦めるケースが多発した。

   これがパスできても、今度はADSL線となる電話メタル回線の机上調査がある。光地域かどうか、電話局からの距離、ISDNとの共存状態、メタル線性状などを蓄積書類の山を掻き分けて1本ずつもたもたと調べる。(データベースは不在。)不適当なら特殊工事とやらを要請された。

   何とか机上調査をめでたく終了し、回答が来て、改めてこちらが工事要請を実施、いよいよADSLの工事が始まる。NTT社員によりMDFのジャンパー線張替え工事と及びDSLAMとの結線工事だ。

   次に工事は申し込みをした人達の宅内に及ぶ。立ち会うNTT社員の日程が知らされ、申込者の在宅日程を調整し、宅内電気技術者資格を持つ当社社員にモデムを持たせ、顧客宅で合流、トラブルがなければやっと開通にたどり着く。

   NTTはそれぞれのステップに恐ろしいほどの手間と時間をかけた。机上調査のプロセスだけで、最速で1週間(6営業日)を要するのだから、上手くいっても全ての工事が終了し、開通するまで早くて1ヶ月、何らかのトラブルが発生する場合2ヶ月から3ヶ月が申し込みから経過した。

   当然、しびれを切らした解約者も続出。しかも、NTTとTMCとのやり取りを行う書類フォーマットの基準すら出来あがっていなかった。何もかも初めてのことだった。多分現在使用されているフォーマットはNTT-TMCの両者で合作したものが原型だろう。

   1件の開通に何十枚ものファックス用紙の束が残された。宅配モデムがDIY化され申し込みから1週間で開通する現在の状況と比較すると、殆ど信じられない時間と工数の莫大な浪費が強要されたのだ。

   積滞という罠に見事に嵌ったのは、当時あまた出現していたADSLベンチャーの中ではTMCのみであった。イー・アクセスやアッカなどの後発参入組の設備投資内容は当社が面を抑えたとすると点が線の段階で、コロケーションスペースやMDFスペースの確保に汲々としており、また、技術的な稚拙さ故、NTTのいうがままの機器採用でご機嫌を取り、このような罠には嵌りようがなかったのである。

   我々がトップ引き故の受難劇に見舞われた頃、NTT地域会社はようやくADSLという技術をTMCの遭遇した多くの困難を通し、本格的に学びだした。それは小児が父親に自転車の漕ぎ方を学ぶのにも似ている。日本のブロードバンドはこの積滞という混沌を通して成長したのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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