【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
35. NTTはだめでも指定工事業者は頼りになった

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   TMCが遺した最大の社会的な貢献は、ブロードバンド通信が夢物語や海の向こうの絵空事ではなく、身近に迫った現実であることを日本中の誰の目にも明らかに知らしめたことである。

   その覚醒は、首都東京で誰でも、いかなる制限もなしに50万という規模でブロードバンド通信回線が用意されたという事実によって果たされた。

   2000年6月から12月迄の6ヶ月間、東京の電話局100局はTMCの工事ラッシュにより沸きたった。MDFからDSLAMを置くコロケーションスペースまで、平均5千本の性能の良いメタルケーブル束(たば)を双方向に張ること、これが主たる工事内容である。双方向となるのは、DSLAMに隣接するスプリッタで分離した従来の音声信号をMDFに戻す結線方法を採用したからである。

   MDFはたいてい局舎ビルの地下に設置されており、これに近接して地階、1階、あるいは遠くても2階に電子交換機が置かれている。コロケーションスペースの多くは、ビルの上層階が指定されていたので、ビル内にメタルケーブルを張り巡らすのが必要となり、結構な大工事となった。壁に穴を開ける、床を貫くなどの手の込んだ諸作業が発生した。

   もともと、MDFと電子交換機との結線だけを考えて設計された局舎ビルであるから、こうした大量のケーブル束がビル空間をのた打ち回る様は、一種、異様な光景であった。しかしこの異様さは新しい通信インフラADSLの出現を告げる新しい時代の意匠なのだ。

   この工事の許可、工事指導、工期などは、全てNTT側が采配を握り、我々が関与できないという電話局聖域論が建前であったことは先に触れた。しかし、この建前にこだわっていては、サービス地域を計画的にかつ短期間で拡大してゆくスケジュールを完遂することは絶望的であった。

   NTTも我々の計画を知り、どうせ工事は上手くいくはずはないと高をくくっていたに相違ない。これこそ、我々が「大工」(でえく、と発音した)と呼んだ現場と現場人脈を知悉していた杉村君配下のNTTノンキャリ出身組の出番であり力の見せ所であった。

   この工事を実際に受け持つNTT指定工事業者はNTTグループの一員とはいえ、このノンキャリア組とは目の高さが同じで現場知識を共有していたから、話は早かった。

   NTTの上層部が何を言おうが、工事計画について、ほぼ我々が希望しているように、年内に全局で終了させることができるという目途が立ってしまった。

   工事業者は工事作業員の手配や材料の取得など、我々に全面的な協力を惜しまなかった。彼らとて、営々と築いてきたメタル線を朽ち果てさせることを座視するに忍びなかったことはいうまでもない。

   局内ケーブル敷設で全ての工事が完了する訳ではない。敷設後に重要な作業がまだ残っている。まず、スプリッタ、DSLAM、そしてインターネット接続のため外部通信用ATM装置を詰め込こむラックを電話局内に運び込み、コロケーションスペースに立てねばならない。

   この建設期間中は電話局あたり2ラックを立てた。1ラック千人分の収容能力だ。次にラックへのこれら装置の収容し、動作点検を済ませ、ラックへの電力供給を確保し、最後に通信ケーブルとラックとの結線作業を終了させねばならない。

   当社ではラック内装置の遠隔集中監視のために上野のネットワーク・オペレーション・センター(NOC)にテレメトリー情報を送るISDN線をそれぞれの局に引いたので、この接続点検も必要だった。このような手間ひまは100局にもなると馬鹿にならなかった。

   ただ、当社ラックは大工組が用意周到に設計した特注ラックだったので、施工上の利便性はすこぶる高く、保守の簡易化を考えてユーザー数の変化とサービス種に合わせたDSLAMカードの追加や置き換えをスムーズに実施できる工夫が凝らされていた。

   それは通信装置職人の魂がこもった芸術品と呼べるものであるが、その活躍を見ることもなく多くは後に廃棄されてしまうこととなる。

   その他に必要なものは、NTT上層部に工事遂行上文句を言わせない「錦の御旗」であった。ここは郵政省の出番であった。

   6月早々に、電気通信審議会の下部研究会である「デジタルアクセス技術に関する研究会」が報告書を公表し、「試験サービス電話局を限定してはならない」との公式的な判断を示す。この効果は大きかった。NTTは反論するが、屁理屈としか取られなかったようだ。もはや、公式に我々の工事を止め立てする根拠は全て失せてしまう。

   こうして絶好のタイミンングで、TMCは全東京の電話局をADSL回線収容局へと変貌させる怒涛のような工事ラッシュを展開した。

   ちなみに、どのようなスピードで開局していったのか、その様子は以下の記す状況であった。開局月、局数、局名を順に記す。勿論、この開局は同時に試験サービス提供の開始を可能とした。開局数が増えるに比例して、すでに「メガアクセスサービス」と名づけた当社のADSLサービスの申し込みが殺到したことはいうまでもない。

   建設工事に投入された設備資金は20億円に達した。一電話局あたり平均2,000万円となる。

   ただし、この金額にはDSLAMのカードやDSLモデム、あるいはATM通信装置の費用は含まれていない。この金額は後に熾烈な工事合戦を繰り広げるNTTやソフトバンクの時代に両社が投じた投資額に比べれば、取るに足らないほんのわずかな投資額に過ぎない。

   しかしこれは我々にとっては、新規調達資金の40%、全調達額の内33%を占める巨額な割合を占めた。

   このような過大な設備投資でキャッシュフローが圧迫され行き詰まるのが多くのベンチャービジネスの失敗原因であることは我々も重々承知していた。しかしこの投資はリスクを覚悟した上で、敢えて決断した。

   何故なら、都内ならどこでもブロードバンド通信が可能となることがTMCの企業価値そのものだと考えたからである。

   都内全てでADSL回線が利用可能になるという事は単に存在感が高まるだけではなく、実戦的でもある。ADSLとはいえ、通信という性格上、ネットワークの利用価値は通信ノードの数(利用可能な局数、回線数)の関数で表される。勿論、穴のないネットワークの方が価値は高くなる。

   しかもこの関数は非線形で急激に立ち上がってゆく性質を持つ。個人であれ企業であれ、サーバーであれクライアントであれ、顧客は、このノードの数が多ければ多いほど利用価値が高まる筈だし、当社サービスへ加入する動機の最大要因となるのだ。

   慎重論がなかったわけではない。資金留保のために局数や回線数を絞れという声は投資家サイドに根強かった。設備産業とはいえ、「度を越している」という声だ。だが。私を含め、TMCの創業者達はこの投資は逃れられない運命であると腹を決めた。

   その時の決り文句は、「何のためにこの会社を創ったの?冒険するためでしょう、お金儲けは明日のことさ!」という訳である。

   また、サービス地域を東京に限らず全国に拡大してゆくことは、通信ノード数の増大という点で同様の企業価値の向上をもたらす。

   しかし、東京の固めに精一杯で人材も資金も余裕は乏しかった。そのため、現地企業を大阪と名古屋に別途発足させようという方針をとった。

   こちらはせいぜい3億円程度の出資で済ませ、ADSL事業は相応の規模で立ち上げられたから、いかに東京が濃密なADSL網で覆われたかがご理解いただけよう。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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