【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
34. 第三者割当で50億円の資金調達、政策投資銀行そして野村證券

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   我々に決定的に欠けていたもの、それは資金であった。

   しかし、我々にはADSL事業に賭ける高い志と熱い情熱、加えてADSL通信に関する豊富な経験に裏打ちされた高い技術と一騎当千の人材、全てが備わっていた。

   また、時代は、インターネット初期のともかく繋がれば良いという段階を過ぎ、それを本格活用する段階へと移行しつつあった。

   折から吹き出したITバブルの風は、まさにこの欠けたるものを埋める神風となった。この風に乗じて、新興株式市場に株を上場し、巨額に上る資金調達を成功させること、これがTMCをいかなる資本系列にも属さず、親会社も持たない独立系ベンチャー企業として存続するための唯一の資本政策であった。

   TMCはその時点で未上場ながら、それまでに実施した数多くの実験の実績やメディアへの頻繁な露出によって、上場企業並みの知名度を獲得し、その将来性についても非常に高い評価を獲得していた。

   前年末に、JAFCOを幹事会社として、額面20倍の1株100万円で10億円の第三者増資を実現していたが、2000年に入り、商用試験サービスが本格的に開始されるやいなや、この評判はさらに高まった。

   『日本にADSL時代がやってくるかもしれない』と、いう期待が日本中を覆った。

   その先頭に立っているのがTMCであることは広く知れ渡った。当時、一般の日刊紙から専門雑誌、果ては夕刊紙に至るまで、この会社とサービスの概要を紹介する記事が異常な量で掲載された。

   政府が他の先進諸国に負けない事を目的として開催された「IT戦略会議」の発足や、「IT立国論」の論拠あるいは実態は何処にあるのかマスコミが探り、やがてTMCに辿り着く。当時の森首相が、池袋のパソコンショップ、ビッグパソコン館を訪れ、我々が用意したADSL回線でブロードバンドインターネットを視察した。

   IT(アイティー)を「イット」と連発した方だが、その重要性は十分に認識されていたようだ。勿論、これはTMCの広報活動が積極的で精妙に仕組まれていた結果である。

   年明け早々から、我々は一斉に増資工作に入る。すでに財務責任者として数理技研総務部長であった新田徹君を引き抜いて配置が終わっていた。今回は額面40倍の1株200万円で2、3千株を発行し50億円前後を集める目論見である。折衝は前回増資とは違い、小林君一任では済まず、私や新田君、NTT組、広報、さらにはジャフコ徳原さんなどの総動員で取り組んだ。

   反応は良好であった。既存株主のジャフコや三和キャピタルなどは前回以上の出資に応じ、国内ベンチャーキャピタル(VC)だけで20億円前後が見込めた。

   ADSL先進国の欧米の投資銀行・ファンドも高い関心を示し、JPモルガンは9億円、JHホイットニーとドイツ証券からは各4億円などの出資を取り付けることができた。

   また事業会社系を巻き込むことにも成功する。番組コンテンツの高速インターネット配信への先行投資と位置づける日本テレビが4億円、国際バックボーン回線事業の活性化を狙う丸紅が2億円、電子書籍の角川やADSL装置開発に本腰を入れたい住友電工や日本電気(NEC)が数千万円単位といった具合である。

   他にも新規VCなどをふくめて、結果的に2,500株を新規発行し50億円ちょうどの振込みを確認できたのが5月中旬のことであった。

   この資金調達の成功を受けて、創業者である私、小林社長、幹部社員はただちに事前に確保していたワラント債発行権を6月に行使し2,800株を額面5万円の総額1億4千万円で入手した。

   つまり、この第三者割当増資によっても、創業者グループの所有株式は依然として総発行株式の過半数を維持できたのである。

   創業者が形式も実質も経営支配権を握ることは我々のプライドでもあった。これにより、TMCが調達した株式資本総額は、創業時の3,000万円からわずか11ヶ月で62億1千万円へと急激に膨張したこととなる。

   だが、この資金額は、この1年に限って見ても我々の試算ではまだ不足していた。そのあらましは次のようであった。

   ADSL顧客ひと口にサービス提供するための通信設備投資費用は、ほぼ10万円と推測した。採算ラインと踏んでいた5万口のユーザーを獲得するにはそれだけで50億円が設備資金として固着する。

   今回増資分はほぼ全額がこのために消える。そうすると販売管理費などの固定性運転資金を賄う資金は別途調達が必要となる。この資金総額は設備資金と同額程度の50億円を見込んでいた。これをどうするのか。実は、これは銀行借り入れで賄う算段であり、その目途も付きつつあった。

   それは国策投資会社の政策投資銀行を中心にほぼ40億円の都市銀行融資シンジゲートを組んで協調融資により調達するというものであった。政策投資銀行の当社担当者は自行分として10億円程度の貸付ける旨の内諾を与えてくれていた。この銀行団からの長期資金の調達は利子も低く株式の希釈もおこさず、きわめて魅力的であり実現性も高いと思われていた。

   しかし、これは完全に油断であった。創業者株式が過半数を割っても、あと最低30億円程度をこの増資時に積み増しておけば、この会社は資金難に陥ることなく2001年を迎えられた筈であった。その可能性は十分にあり得た。かえすがえすも不本意で残念なことをしたものである。

   更に大きな油断があった。それは、野村證券の甘言に我々が乗ってしまったことである。これについても記しておこう。上場時の幹事証券会社の引き受けについては、早くから外資系を含め、数多の証券会社からの接触があった。

   その中でひと際アグレッシブな姿勢で来たのは野村證券であった。

   当時の専務取締役が年初からたびたび当社を訪れ、「TMCの事業は日本ITを飛躍的な発展に導く国策事業と我々は考えている。私は国士だ。経営が赤字であろうとなんであろうとあらゆる手を使って貴社を上場させてみます」という売込みをかけてきた。

   言下にこんな荒事をやれるのは当社だけです、とほのめかす始末だ。この売り込みだけでなく様々な理由から、7月には上場担当幹事会社は野村證券に決めた。だが、野村證券はいつの間にか態度を豹変させ、見事にその約束を裏切った。あれこれ難癖をつけて、最も資金繰りが困難な状態に陥った段階で、上場見送りを宣言し、会社には姿を見せなくなる。

   これについては、あくまで私の推測に過ぎないが、NTTの影響力の大きさを見逃す訳にはいかない。どこかできついお灸を据えられたと見るのが妥当であろうか。

   あるいは、ITバブル崩壊をいち早く見越して、「国士の約束」たるものを恥じらいもなく「ドブ」に捨てたのか。政治的な銘柄の発掘と仕込み、その生殺与奪権を握って株式市場を操作することを平気でやるこの企業の体質への油断は、第二の油断であった。

   銀行といい、証券会社といい、蛇の狡知が行き交う世界への警戒心が、我々に欠落していた。この事が後々迄、我々を苦しめることとなる。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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