「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
西暦2000年(平成十二年)、20世紀最後の年は、東京めたりっく通信にとって、最も華やかで、記念すべき年となった。我々の精神的な盛り上がりは最高潮に達していた。持てる潜在能力の全てが発揮され、1つ残らず我々の事業へと投入されていった。最終決戦へと導かれる挑戦が本格的に開始されたのだ。
その挑戦が目指すものは、電話網にかわるIPを用いた次世代公衆網を本格的に建設するということであり、日本中のインターネットユーザーが日常の通信手段としてADSLを当たり前に利用できる環境とそれを許す制度とを築き上げることであった。
この野心的な構想は、誕生してまだ半年しか経たぬ弱小ベンチャーの単なる大言壮語に終るのか、或いは、「夢物語」を乗り越え、世の中を一変させる「激震」を生ずるのか、まさに手に汗握る1年が開始されたのである。
しかしNTTが独占してきた一般公衆網に激震が走る程のインパクトを与えるには、都内だけでも100局以上もある電話局の内のたった6局でしか許されない商用試験サービスの枠組みでは、そのような大きな衝撃を与える事ができないというのも、如何ともし難い現実だ。何とか制約を突き崩さなければならないことは明らかである。
我々が、それまで数々の障害を乗り越えて辿り着いた高みは、本当の高みではなかった。麓から山を登り、頂上に立った時、それは山塊の入り口に過ぎないことが理解できたに過ぎない。
ADSL商用実験が、通信行政のイニシアティブを巡り、防衛にまわるNTTと攻勢に出た郵政省の政治的妥協の産物であったことはこれまでに述べた通りだが、その妥協ですらも、NTTは、接続料金という罠を仕掛け、我々に有無を言わせず押し切った。
もし、東京めたりっく通信が利用時間の制限を設けない、月5000円台の定額サービス料金で試験サービスに踏み切っていなければ、NTTは、同様のサービスを一体全体幾らぐらいで予定していたのだろうか。ISDNやテレホーダイの料金を参考に考えると恐らく毎月何万円となっていたに違いない。今考えても空恐ろしくなる。
このように料金問題はほんの序の口に過ぎなかった。我々が登り切らねばならない山塊の頂点とは、何の成約も受けない全面自由化されたADSL事業なのだ。既に欧米の先進諸国では開発に躍起となっていたDSLブロードバンドだが、日本だけが取り残されている状態はすでに異常を通り越していた。
期間1年と決められたこの最中に、試験対象電話局の増加と最終的な自由化を促がす社会的な諸力が働くであろうということは、ある程度事前に予想できていた。
しかし、実際はどうなるのか。これは全く別物だ。ビジネスはどのように始まるのか。はたしてADSLユーザーは登場するのか。NTTは本当に全電話局開放に応じるのか。我々のみならず、当のNTTも郵政省も2000年初頭の段階では皆目検討がつかなかったというのが本音だったろう。
ただしこのビジネスを推進しようという力が、NTTからあるいは郵政省からも生まれないこと、これだけは確かである。
『よし、我々ベンチャー勢がやるしかない。』本格商用サービスの号令がどういう手順とタイミングで発せられるにせよ、我々は座して静観する訳にはゆかないのだ。静観していては何も生まれまい。いや、全てを駄目にするだろう。我々に残された道は行動だけだ。実質的に商用サービスに近い状態を作り出せば、自ずと社会全体は動き出さざるをえまい。この身を弾として、圧して、圧して、圧しまくり、サービス提供地域を増やして行こう。次世代公衆網を目指す以上は、東京全域を覆うようなネットワークを実質的に築いてしまうこと、これが勝負の分かれめだ。民の声は必ず我々の側に居る。この自信だけは揺らがなかった。
しかし、実現には大量の資金が必要だ。大規模な再度の増資を急ぐことにした。
我々の考え、姿勢、ビジネスモデルを正直に見せ、話せば、必ず投資してくれる。その資金で東京中をADSLインフラで覆い尽くそう。
速いと言っても誰もがそれを実感できないと、理解して貰うには限界がある。デモンストレーションする場所がまず必要だ。マスコミ(特にテレビ)の対応にも欠かせない。速さを実感させる事、それが「めたバー」という宣伝拠点を開所した動機だ。
2000年を目前に控えた、1999年12月24日クリスマスイブに東京初のADSL回線を数理技研1階に敷設、展示デモンストレーションの場所として「めたりっくバー」をオープン、併せて華々しくADSL商用試験サービス開始記念式典を挙行した。
この基本戦略は成功する。この年の6月、増資に成功、50億円を獲得した。
この50億円で大々的な設備投資を実行した。その年の夏頃開始、年末に至るほぼ6か月間でTMCは独力で都内100電話局50万回線分のADSLインフラを一気に完成してしまった。多分、これまでのNTTの工事の常識を打ち破る快挙、奇跡であった。
たった半年で都内の通信インフラが一変した。この疾風怒濤の勢いは、通信業界のみならず、インターネットやコンピュータ業界全体の空気を確実に変えていった。
日本の首都東京で所帯数の1割近い50万回線がという規模でADSLにより、ブロードバンド化された。それは同時に、もはやADSLからISDNやアナログの時代が逆行する事は不可能な時代に入った事を意味する。
最初は疑心暗鬼だった一般の人達もマスコミを通じ、また、めたりっくバーの展示を見て、ブロードバンドの真実を知った。NTT社内に震撼が走った。彼らを襲った危機感は他のどこよりも大きかった。
このままでは完全にTMCないしそれに連なる新規参入事業者にブロードバンドユーザーを全て奪われてしまう。これまで、何とか破綻しないように取り繕ってきた「タリフ」(料金表)が全てお釈迦になってしまう。収益構造がすべて変わってしまう。
ADSLをここまで遅らせた「悪の張本人」として、世間の袋叩きにあう。当然、経営者は責任を問われる事になる。場合によっては進退を問われかねない。
こうして、NTTはそれまでのADSL黙殺戦略の練り直しを本気で進めることになった。この間、郵政省が我々を全面的にバックアップしたことはいうまでもない。NTT最大株主は郵政省なのに。
50万のADSL回線が物理的に存在する事は、彼らの規制緩和による競争政策推進の正しさを明かす証拠物件であり、NTTの抵抗を粉微塵に打ち砕く最強の武器となった。
この年の末、NTTはADSL事業の本格参入を組織決定し、2001年から郵政省の最終認可のもとに、実験ではなく、本格商用サービスとして幕が切って落とされた。
ダークファイバーのアンバンドリング(両端に機材をつけない状態の事)も、ほぼ同時に実施された。こうして日本ブローバンド通信の夜明けが始まった。
しかながら、TMCのビジネスはこの夜明けを迎えた時、既に四面楚歌の状態に陥っていた。投資の先行に顧客獲得が追いつかず、深刻な資金難に直面していたのだ。このような事態に陥りかねないリスクは最初から想定していたが、まさかここまで深刻な事態になるとはその当時は考えてもいなかった。この危機への対処については、後に詳しく記すとして、ここからはしばらく、華々しいTMC初期の躍動、どうしても破れなかったNTTの厚い壁に阻まれた苦戦の有様を描写したい。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。