「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
接続交渉の第2の争点は、NTTが開始しようとしていたメタル線撤去計画を巡るものであった。
交渉の初期には、NTTが加入者回線を光化した場合は、一定の猶予期間(6か月)を与えるからサービスを停止する覚悟でいてくれと、実に高飛車な一方的条件を我々に突きつけた。この期間も守れない突発事態もあるという。これは重大問題であり、この交渉で最大の危機であった。MDFが開放されてもメタル線が撤去されれば、ADSLは陸に上がった河童だ。マーケットが消滅するのだ。
それで様々な方面の情報を収集して分析してみると、FTTHは必ずしもメタル線撤去を前提とするものばかりでなく、メタル線といわば併設して引かれる物が大部分であるとの判断に至った。
メタル線は撤去されるのでなく放置されるのだ。メタル線の巻き取りは、それだけで敷設と同様の天文学的コストがかかるから、管理の対象か外されるだけなのだ。NTTが光化といったのは、電話線に直流を流すことを停止し、ケーブル・メインテナンスを停止するだけだ。
どうも、NTT側の交渉担当者は、現場経験が殆どない人達のようだ。また、組織も大きいから、正確な情報よりも、トップが流す「メタル線は姿を消す」という光化イデオロギーの方が幅を利かせ、事実を正確に把握し、NTTの定められた政策に従って策を練る手間を怠る事を恥と考えない人達だったようだ。
そこで我々は、どの地域がどんな予定で光化されるのか、その場合メタル線は管理を打ち切るのか物理的に撤去するのか、正確な情報を求めた。案の定、このデータは最後まで開示されなかった。
こちらから、一度ADSL利用者となった者の利用するメタル線は、最低5年程度は撤去してはならないという逆提案をする。設備費用、顧客獲得費用の償却を考えれば、当然の要求である。郵政省は別途聞き取り調査などで、TMCよりもはるかに正確な光化の実態を掌握していたようだ。「メタル線の撤去通知は最低4年前に」との常識的な案を提示、以後、交渉の中途からこの商売打ち止め通告制については、議論の対象から消えた。
FTTH構想に基づく、事実誤認の現場情報が浸透するのを阻止し、メタル線を生きた環境として守り抜いた気迫は、TMCが残した遺産のうちで最大の宝物かもしれない。
NTT東西地域会社がADSL顧客の最大数を保有する今日、顧客保護の観点からしても、メタル線を廃棄しようなどという暴論が再び亡霊のように復活しないことを祈っている。
次に争点となったのは、TMCが使用するADSL機器の標準仕様問題であった。まず、CAP対DMT問題があった。(これも技術的な話が続きますがお付き合いください)本来、どちらの方式でも大差はない。
しかし、当時世界的にはDMT方式がデ・ファクト・スタンダードとなりつつあり、ITU-Tにおいて標準規格として認定される見通しが高かった。NTTはこの規格製品以外は使うべきでないと主張してきた。
TMCでは、機器は優秀で安いものを優先的に選択する自由を接続相手に譲るつもりはないと突っぱねた。なにしろTMCが何か決めればそれが後々の規範となることは分かりきっていた。
ADSLの技術進歩は早い。ここで妥協し、NTTに機器仕様にたがを嵌められることだと解りきっていた。これは、競争の自由を制限するものとして断固拒否した。
またNTTは、通信時に自社のISDNがADSLの加害者となることを良く知っていた。その逆はほとんどありえないことも知っていた。しかし、干渉問題あるいは漏洩問題として大きく取り上げ、日本でのADSL導入を拒否する論拠としてきた。この相互干渉への切り札としてメーカーに開発させた日本独自仕様のADSL機器のみが使用されるべきであるとの提案をして来たのに我々は驚いた。
ISDNはピンポン伝送方式といって、1つの電話局のISDN信号は1つの時計に合わせて一斉に上り、下りを切り替える。このISDNの上り下りの切り替えに合わせてADSLも動作を切り替える。具体的には転送するデータの量を変えてISDNからの影響を少なくする。
これを彼らは何と、ITU-T仕様として提案し、規格に持ち込もうとしていた。普通のDMTをAnnex‐Aと称し、自社規格をAnnex‐Cと呼んで、国際的権威を借りて押し切ろうとした。
日本でしか通用しないものを国際標準にするとは随分図々しい話だ。しかもAnnex‐Cは、ISDNの時計をNTTから借りて使わねばならない。
勿論、この提案も拒否した。何を使おうとこちらの勝手ではないか。
なるほど、便利な仕様かもしれない、ISDNの凄まじいノイズからは身を守れる。しかしコスト高が気になる。それよりも、NTTの都合を一方的に優先させる合意は対等な交渉とは認めがたい。
これについても、郵政省は援護射撃を買って出る。「既存通信事業が害されないかぎり、他の接続事業者の仕様選択は自由である」と見解を述べる。
我々にすれば、ノイズを撒き散らす全ISDNにノイズ除去のフィルターをつけることを義務付けるべきであると、主張したかったところである。
こうしてADSL仕様の強制押し付けは流産に終わった。機器仕様の自由は確保した。実際、廉価な海外製品の大量購入を計画していた我々にとってこれは死活問題だった。
すでにISDNの導入数が当時の10分の1以下となった今日を考えれば容易に分かるように、NTTの「無理」は「道理」の前に引っ込んだ。これについては、技術担当のNTT側交渉員も引っ込むしかなかった。
ただし、TMC側で使う予定のADSL機器についての信号の分布・強度のスペクトラム図の提出などを執拗に迫られ苦労した。この干渉あるいは漏洩問題は後々まで尾を引き、終にはNTTもその主要構成員である中立の協議機関(TTC)で審議されることとなった。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。