「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
ASDLサービス事業の展開には2種類の方法が考えられた。
1つは回線貸型(OEM)という比較的容易な参入方法である。
ユーザーと電話局間とをADSL接続、その回線をISP事業者に卸売りする。顧客の獲得や料金徴収は自分でやらずISPに任せ、収入はもっぱらISPから支払われる回線提供料となる。後にイー・アクセスやアッカなどの後発組が選んだ事業スタイルだ。
もう1つは、一気通貫型だ。
ADSL回線の確保もインターネットへの接続も一体としてユーザーにサービス提供する方式で、顧客獲得も料金回収もすべて自らが行う。
前者に比べれば手間とコストのかかる運営方法だが、独立性が高く、利益率も高いなどの利点がある。後にTMCが選択し、ソフトバンクが踏襲した事業スタイルである。
しかし実際問題として、会社発足時には、回線貸しだけに徹するという安易な選択肢など全く有りえなかった。「電話線で高速インターネット接続」を考えるISPは、実現性を疑い、進んで手を挙げる企業など現れなかった。NTTが提供するインフラにどっぷりと浸かって商売していた彼等はNTT以上にこれを疑問視していた。
身近なTKI(東京インターネット)ですら、伊那実験は途方もない考え方として、無視されていた。
ISPという存在はもともと通信技術についてはほとんど素人で技術に関しては概して保守的であり、顧客のほうがむしろ革新的な場合が多い。顧客が変われば彼らも変わる。
こうして、我々はたとえ孤立無援であっても全てをやって見せねばならなかった。多分革新的だと思われる顧客たちに対して。ダイヤルアップと高額専用線の法外な料金に苦しめられている日本のインターネットユーザーに、ADSL回線提供もインターネットサービスも、ひとまとめにして提供する事、これが我々に与えられたミッションだった。
ADSL回線提供の自由を獲得するためのNTTとの戦いを血みどろの地上戦にたとえるなら、インターネットサービス提供は空中戦にたとえるのが適当だ。
インターネットは地を這う通信インフラの上に築かれたアプリケーションであり、その商業化はとうの昔に達成されていたので、新規参入に障害がない。それでもかなり大きな困難が伴った。技術的な困難ではなく、政治的困難である。
NTT電話局からインターネット・データ交換所(IXと呼ばれるISP同士が相互にデータ交換する場所、大手町にあった)まで、NTT専用線を借りなければ、ADSLのデータ伝送は不可能だ。いわゆる中継線とかバックボーンとか呼ばれる通信線領域である。この中継線は、当時光ファイバーによるATMネットワークとして整備され、サービスが提供されていた。もし、この提供を政治的に拒否されたら、我々の構想の半分は吹っ飛んでしまう。
インターネットへの接続が出来なくなり、単なるメタル線の実験で終わってしまう。提供不可の理由は何とでもなる。
そんな危ない橋を渡るわけにはいかなかった。仮にNTTのATMサービスが受けられたとしても、その利用料はすこぶる高額だ。
そもそも、我々は、この中継線ネットワークすら、アンバンドルの対象としてNTTとの接続交渉に臨んでいた。余っている光ファイバーをダークファイバーと呼ぶ。これを裸で借り出せれば両端に最適な機器を設置し、非常に高速で割安なバックボーンが可能となる。
ここにADSL通信で一気に跳ね上がるデータ通信トラフィックを収容したかった。
加えて、常時接続による低額料金実現のコスト上の根拠としたかった。それを、初っ端から、NTT既定商品の中継線サービスにすがり付くなんて、勝負の気迫を疑われるような醜態ではないか。中継線の独自確保を何としても目指さねばならない。
NTT以外、となれば、都会では第二電電系しかない。ここへのアプローチを会社設立と前後して開始した。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。