「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
されば我らの手でという決断が現実性を帯びてきたのは、NTT社員で内部を良く知る人物2人が我々に合流する目処が立ってからである。
1人は先に述べた杉村五男である。上の兄弟4人が東京大空襲で焼死し戦後直ぐに生まれたのでこの名前を両親からもらったという団塊世代である。
高卒採用でNTT(当時は電電公社)の設備から組織事情まで知りつくした現場のたたき上げである。民営化後にNTT-PCに出されてインターネットと巡り会い、当時はリコーテクノネットというネットワーク関連会社に就職していた。
ここでリコー出身のソネット小林君と知り合い、ADSLの話を聞いて我々への合流を決意する。東京支所の課長補佐時代、光ケーブル敷設の後にメタルケーブルを撤去せよとの課長命令を無視したと自慢するだけあって、メタル線がふんだんに残されていることを熟知していた。
また、電話交換機の置かれているNTT電話局舎の様子、MDFという電話回線終端装置の実情、管路と筒道という地下に築かれた長大なトンネルの存在、マンホール、電柱の重要性など、我々が乗り出そうという通信インフラの生き字引的な存在であった。
彼の存在により、局社内への設備コロケーション工事と、その設備保守管理については、我々は相当に正確な知識を手に入れることが出来た。 彼の合流は離職に手間取り10月になったが、接続交渉の段階から実質的には参謀として関与していた。
もう1人は平野剛君という民営化直後に入社したNTTキャリア組の俊才である。マルチメディアビジネス開発室でインターネット上の次世代コンテンツビジネスを開発支援する立場にいたが、展望のなさにあっさりと退社を決意、ADSLについては、日本でやれるなら死んでも本望という熱血漢であった。(これも小林君がどこかで見つけてきたのである。)これは使える、NTTのマルチメディア路線の破綻を超えようとする姿勢と、この大組織へのケレンのなさは買える、こう私も小林君も納得した。
さらにもう1人を紹介しておく。フリーのコンサルタント川村啓三である。
IDCでのアナリストとしての経験を経て、通産傘下日本情報システムユーザー協会(元データ・プロセッシング協会)でコンサルタントを経験し、日本でのコンピューターメーカー系トップにアナリスト時代の幅広い知己をも持ち、広報に関わるメディアへのチャネルをしっかりと持っている人物だ。
すでにUBA周辺の活動で彼とは旧知の間柄だ。どうやらMDFも解放されることは間違いなさそうだし、後は如何に世論形成をはかるかを広報担当としてやってくれないかという要請に2つ返事で応じてくれた。
こうして新会社の骨格は固まっていく。整理しておくと、私、小林、梅山、杉村、平野、川村、この6人が設立時の中心メンバーである。よし、これだけの顔ぶれが揃えば、後は何とかなると思った。
常時接続高速インターネットアクセスを提供するビジネスの登場は、インターネット利用者広範に熱烈に歓迎されるに違いない。郵政省もこちらに付くだろう。
あのNTT相手に取って不足はない。ベンチャーの起業だ、面白くなるぞ。
こうして1998年7月末、東京めたりっく通信が設立された。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。