【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
17. 郵政省の團通信事業部長が突然伊那にやってきた

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   そんな6月のある日突然、郵政省の電気事業部長の團宏明氏 (現日本郵便事業株式会社代表取締役社長)の一行が、いなあいネットを訪問視察するとの知らせが舞い込んできた。

   既に、伊那での実験以来、様々なチャンネルで彼とは面識を得ており、ADSLが何であるかは知らせている。

   前年1998年秋にも視察プランがありこれは中止となっていた。しかし今回は本気だ。

   郵政省の大立物自ら直々の視察とあっては、いやがうえでも緊張せざるをえなかった。

   中川さん、安江さん、ちょうどJIPDECプロジェクト(後出)に従事していた梅さんなどがあれこれ現地を案内し、視察は理想的なかたちで進んだ。私や小林も駆けつけ、地元料理屋で懇談会を持って、ここを先途とばかり日本にADSL普及をさせるために行政のイニシアティブ発揮を懇請する。

   さすがに大物官僚である。安請け合いはしないが、じっと話を聞いて微笑みつづけている。よし、これは落ちたと確信する。伊那宿泊は固辞して本音の駄目押しをする間もなく引き揚げていった。酒のせいだけでなく團さんがずっと上機嫌であったのが我々には何よりのご馳走であった。

   郵政省では何かが変わった。恐らく1998年末あたりから1999年の初めに一種の危機感が郵政省を捕らえ、政策変更が密かに行われたのであろう。

   その危機感とは、NTTに今までのように任せておけば日本の通信インフラは世界に決定的に立ち遅れてしまうという行政の自己防衛本能であり、責任感でもあった。この責任感が、省内でどのようなイニシアティブの確立により浮上してきたかは、推測のかぎりでしかないが、およそ以下のようなものであったろうと思われる。

   光ファイバーによるFTTH構想は素晴らしいものだが、その実現に至るまでのプロセスには疑問だらけだ。現存のメタル線設備を全面活用するというADSL解禁はFTTH隆盛を構想するなら避けては通れぬ過程だという認識は、世界の最新情報が集まる省内ではたやすかったはずだ。

   だが、そのためにはNTTから独善的なISDN防衛という教条を剥ぎ取らねばならない。だが、これをどうやるのか。郵政省も、実は、光+ISDN路線を審議会、研究会などで根回しを受ける形でほぼ既定路線として暗黙のうちに認めて来た経緯があった。

   公文研究会での論調は、あくまで尊重するべきだが少数意見という扱いであった。また、先にメール問答を引用した斎藤教授とて、過去の発言からNTTの代弁者とすら見られていたのである。実際、その後、NTT社員から斎藤教授は自説を捨てて豹変したという恨みごとを何回か聞かされたくらいである。

   こうした省内の雰囲気を変えたのは、かの携帯電話事業における競争的な行政指導の経験の蓄積であったと考えてよい。固定通信網がNTTの100%支配を受けていたのに対し移動体網は各事業者が資金も技術も独立に構築したものであり、当然に最初から「相互接続」のルールや料金規定を定めねばならなかった。ここで「競争政策による通信インフラの構築」というモデルを勉強し体験した。

   だから、固定通信網とて同じ理屈で、独占から競合へという行政指導に身構えていたはずだ。ところが、この競合は移動体のように「第二電電系」のどこからも現れなかった。ドコモとの戦いで精一杯、というのが実情であったのだろう。

   辛うじてどこの馬の骨とも知らぬ中小企業ベンチャーが、何社かあるらしいが、果たしてこの連中を対NTT競合者として扱えるのか?国家の通信政策を左右する場所に引っ張り込んでよいのか?当然の逡巡であった。

   ここを踏み切らせたのが團さんの訪問の意義であったと私は評価したい。しかし、もっと決定的でこれがなければ果たしてどうなったか分からん、というのは省内のそこかしこに姿を見せてきていた若手官僚の存在であった。個人名を挙げるのは控えるが、課長補佐クラスの一定層は、もはや電話世代の通信官僚ではなかった。インターネットの爆発的な威力を、身をもって体現しているジェネレーションであった。

   しかも、汎用機ではなくパソコンやLANを自在にあやつりネットワークの効用が理解できた郵政省新人類であった。この層が、東京めたりっく通信の全面的な支援に回ってくれたのである。会社の格とか素性を問われたことはなかった。ただただ、彼らは長野県でのxDSL実験とその後の伊那での実用実験とを全面的に信頼してくれたのである。

   こうして、NTT対抗事業者として正々堂々と認知されて、我々は一気に郵政省の力量を全面的に活用する立場へと進出することができたのである。

   相互接続交渉を正式に申し入れた東京めたりっく通信は、もはやKDDでありDDIでもあり日本テレコムでもあった。團さんの伊那訪問は、このベンチャーを公認のADSL競技のトップ引きの立場に我々を置いたのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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