【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
10. 最後の実験は長野オリンピックで行われる

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   1998年2月からは長野県ツアーの最終のADSL実験に取り組むこととなった。実験フィールドは川中島町有線放送で、場所は長野市の近郊、かの武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島である。

   実験内容は折から長野冬期オリンピックで沸き立っていたこともあり、有線会員に各種競技をADSLで生中継するとか、海外の選手や観光客に街角でADSLによる無料利用サービスを提供しようとか、企画は多岐に膨らんだ。

   伊那、上田で技術的な検討はおおよそ終了していたし、機軸を「実利用」に置くことで実験の魅力を掻き立てた。

   しかしここに来て、宮様の暴走が顕著となってきた。伊那、上田、川中島の地元折衝と実験企画の立案で牽引役を果たしてきたのだが、どうも地元との折り合いが上手くいかない。最初は良いのだが途中でおかしくなる。

   立上げ屋としてはきわめて優秀であり、その弁舌は人を動かすものがある。書くものも立派だ。だが実務能力と他の人との折り合いが彼には不得手なようだ。要は人徳に欠けるのである。川中島でそれが一気に吹き出した。

   彼の引き回しにすっかり嫌気のさした梅さんグループは実験から降りてしまった。かわって東京から支援に訪れたキャンフォーラムメンバーも宮様からたちまち離反してしまうといった有様で、不協和音が一気に高まった。実験連絡会も名ばかりのようで、現地に張り付いていない私には事情が飲み込めないまま、傍観するしかなかった。

   これを抑えて実験を軌道に乗せたのは、川中島有線放送事務局長の酒井公子さんである。「あんたは・・・・」といって宮様の独断先行を牽制する力を持っていた。鬼神をも黙らせる不思議な魅力をもった女性で、組合長の説得から地元の実験手配まで全て完璧にこなした。彼女の有線放送事業の再生をADSLに賭けようとする情熱は半端ではなかった。それは、いなあいネット以上であったかもしれない。上田もそうであったがCATVが高速な常時接続のインターネット接続サービスの競合者として近場に登場しようとしている背景もあったようだ。

   すでに2回の実験で機材は集積されているし、やり方も関係者の頭に入っている。

   長野県の有力地域プロバイダーであり、実験に全面協力して貰った地元のJANIS(長野県共同電算)の有能なネットワーク・インテグレータの佐藤千秋さんがISP接続を受け持ってくれていた。

   また、長野市は農協のほうがNTTよりも立場が強いという不思議な場所で、地域NTTの間接的なバックアップも期待できた。

   これにより、実況中継はさすがに断られたが、競技場近くの民家からのライブカメラによる天眼鏡、海外選手観光客用の街角サービス、無線LANの中継線利用、そして様々なインターネット高速アクセスなど盛り沢山の実験を実施することが滞りなく完了することができた。参加者の盛り上がりは伊那、上田に劣らないものであった。

   この川中島町有線放送は、のちに日本のADSL商用インターネットサービスの第1号プロバイダーとなり全国を驚かせることとなる。

   NTT電話網での商用サービス開始の2001年1月に先立つ、1999年の9月のことである。その実現にはそれぞれの組織を説得し、さらに郵政省の認可を取り付けるなど、茨の道であったようだが、佐藤、酒井のコンビで乗り切ったようだ。

   TMC小林君も、機材の手配や郵政省交渉の後押しなどを買って出て、ADSL普及の広大な戦線の一翼を担うこととなった。

   しかし残念なことに、川中島での公式の実験報告は前2回とは違って作成されていない。その詳細は、今は各人の記憶の中にあるだけである。梅さんの不在は大きかったのだ。

   なお、宮様も、筒井君には随分遅れるが、たぶん筒井君の推薦でソフトバンクに就職した。

   押しかけの伊那実験組は、ルーツは同じくして TMCとYahoo!BBとの創業に大きく係わり、それぞれ乱戦において他ではやれない重要な役割を果たすことになった。

   元部下で仲人も務めた私としては宮様をTMCの一員に加えたかったが、これは他の創業メンバーの反発に会い、頓挫した。しかし、農村有線放送に賭ける彼の情熱は消えなかったようで、Yahoo!BB移籍後、事前に予想されていたことだが、現場への過剰介入が上層部の判断で一蹴されて退職後、長野市に移り、信州大の非常勤講師を務めたりJANISに協力したり、と活躍した。今は長野市を離れ別の場所で意気軒昂と励んでいると聞いている。

   長野県3ヶ所で2年にまたがった有線放送電話網上でのxDSL利用実験は、基本的にスポンサーなしのボランティアベースで行われた。

   従って、実験予算のようなモノは存在しなかった上、その必要性が議論されることもなかった。敢えていうなら、『意識しないようにした』というべきかもしれない。

   勿論、費用が掛からなかった訳ではない。それは参加者各人が自分の裁量に任された。費用は自らが負担した。それでも何一つ文句が出なかった。

   果たして上手くいくのだろうかと実験開始時に抱いていた『機材手配や地元の人達の協力への不安』も杞憂に終わった。

   このように金銭利害に関してはまるで桃源郷のような空間が生まれたのは、参加者がそれぞれの立場で来るべきADSL時代に大きな希望を抱いたからに違いない。

   NTT加入者電話網では見ることも触ることもできかなかったADSLを日本で初めて実地に体験できるということは、何ものにも代え難い魅力があったということであろう。 更に次の段階としてNTT加入者網を利用する新たなビジネスへの期待があった。

   こうして新たな技術を切り拓く者達の、新たな世界への大いなる覚醒を経て、実験連絡会は自然と解体の方向に進んでいった。

   この実験を主導した数理技研もADSL機器のいくつかを買い取り、地元にささやかな贈り物としていなあいネットに残して、実験を終えた。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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