精神科医・和田秀樹さんインタビュー(上)
「映画を撮るために医者になった」

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   精神科医であり、「受験の神様」の異名をもつ和田秀樹さんが初監督した映画「受験のシンデレラ」が2008年3月29日、公開される。なぜ、映画を作ったのか。復活する日本映画のなかで、独立系映画はどんな状況に置かれているのか。和田秀樹さんに聞いた。

主人公は余命1年半の「受験のカリスマ」

主演女優の寺島咲さんと、余命1年半を宣告された受験の神様を演じる豊原功補さん<br />(C)受験のシンデレラパートナーズ
主演女優の寺島咲さんと、余命1年半を宣告された受験の神様を演じる豊原功補さん
(C)受験のシンデレラパートナーズ

――「受験のシンデレラ」は、どんな映画ですか?

和田 「受験指導のカリスマ」と呼ばれて富も名声も手にした男が、ガンで余命1年半と宣告されたのをきっかけに、高校中退の貧しい女の子に出会い、最後の仕事として自分のもつ受験テクニックを彼女に注入し、東大に合格させようとする映画です。受験を取り上げた映画がなかったことと、日本ではホスピスのことだと誤解されている緩和ケアの本当の意義や格差社会の現状を描きたいと思いまして。これは僕の生きる哲学でもあるのですが、「よりよく生きる方法を知れば、人生は変えられる」というメッセージを込めました。

――なぜ、映画を作ろうと?

和田 高校2年生のときに遡るんですが、当時の僕は灘高校でも落ちこぼれのほうにいました。自分の人生の目標をもっていなかった。そんなとき、映画を見て、自己表現の手段として映画があり得るんじゃないかと思ったんです。それまで小説家になりたいと思った時期もあったけど、あまりにも下手だったもので。
高2だった1977年、映画は日本ではいちばん斜陽なときで、大手が助監督採用は止めていた。一方で、京都府立医大の学生だった大森一樹さんが「オレンジロード急行」で城戸賞を取って医学生に監督させるとか、非商業主義的な芸術作品を撮っていたATGでも長谷川和彦さんが名作「青春の殺人者」を作っていた時期です。その後、もっと制作費を削ろうということで1千万円映画を始めて、井筒和幸さんが島田紳助さん主演で「ガキ帝国」を撮ったのですが、その井筒監督も、三上寛さんなどが出演する自主映画のピンク映画をもっと低予算で撮っていた。そういう時代でした。

――映画を作りたいと思うきっかけになった作品があったんですか?

和田 僕が当時住んでいた大阪には名画座がなくて、2、3年前の日本映画の青春ものを上映していた毎日ホールで、藤田敏八さんの「赤い鳥逃げた?」を見たのがきっかけかな。29歳のおじいさんと自分を嘆く役で原田芳雄さんが主演していた。「やることが無くなりゃ、ジジィだろ」とか「このままじゃ俺は、29歳のポンコツだ」などと嘆く台詞を原田芳雄さんが語るのを聞いて、僕も夢をもっていなかったので「17歳でもうジジィ」だと思った(笑)。
当時の灘高というのはおめでたい学校で、僕が220人くらいの中で140番くらいだったんですけど、120人も東大に合格していた。京大や阪大の医学部に行く奴を考えたら、140番でも入る気になれば東大の文2や理2なら受かるだろう。しかし、東大生になって何になるという目標がなかった。脚本はジェームス三木さんだったんですが、29歳のおじいさんの気持ちを描いてこんなに面白い映画ができるのなら、僕も映画ならある種の自己表現ができるかなあと思った。まず金を貯めて映画を撮りましょうという発想になった。その1千万円を貯めるために医学部を選んだわけです。
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