未成年の少年少女が斧やナイフで家族を殺すというショッキングな事件が相次いでいる。そのたびに問題とされるのが、残虐な場面を含むアニメや漫画の影響だ。ときにはアニメ番組が放送休止になる場合もあるが、「過剰反応ではないか」との声もある。最近、事件との関連で注目された「ひぐらしのなく頃に」について、アニメやゲームなどのサブカルチャーに詳しい東京大学大学院情報学環の吉田正高・特任講師に聞いた。
同人ゲームから始まって、漫画、アニメ、小説へと展開
「ひぐらしのなく頃に」は同人ゲーム(写真中)から出発し、漫画(右上)やアニメ、プレステ2用ゲーム(左上)へとメディアミックス展開している
――2007年9月に京都府京田辺市で16歳の少女が父親を斧で殺害するという事件が起きましたが、その影響でアニメ番組の「ひぐらしのなく頃に」と「School Days(スクールデイズ)」が放送休止に追い込まれました。また08年1月上旬に青森県八戸市で、18歳少年が母親と弟と妹を殺害する事件が起きたときは、「ひぐらし」と思われる漫画本が警察に押収され、事件と漫画の関連性が取り沙汰されました。
吉田先生は「ひぐらし」について特に詳しいと聞きましたので、今回は「ひぐらし」に的を絞ってお聞きしたいと思います。そもそも、「ひぐらしのなく頃に」とはどんな作品なのでしょうか?
吉田 「ひぐらしのなく頃に」というのは、もともと「07th Expansion」という同人サークルが作ったゲームから始まった作品です。2002年夏のコミックマーケットで、第1話にあたる「鬼隠し編」が発表されたのが最初です。その後、半年に1回のコミックマーケットで1話ずつ発表されていき、2006年夏の第8話「祭囃し編」で完結しました。
最初の3話目ぐらいまではそんなに話題になっていなかったんですが、4話目が出た2004年ごろからネットで注目を集めるようになり、非常に大きなファンのコミュニティがネット上に作られるようになりました。その後、2006年からは、漫画やアニメ、プレイステーション2へのゲーム移植、小説へと多展開されて、さらにいろんな層に広がっていきました。
――それだけさまざまなメディアで人気を獲得した「ひぐらしのなく頃に」のストーリーとは、どんなものですか?
吉田 単純にいうと、雛見沢村という山奥にある寒村で、夏祭りの夜を中心に連続怪死事件が起きていくという推理劇です。前半は中高生ぐらいの男の子や女の子たちの楽しい学園生活の話だったのが、後半になると一転して恐ろしい事件が起こる陰惨な展開になっていく。古い因習が残る閉鎖社会の中で猟奇的な事件が次々起きるという点では、横溝正史の「八つ墓村」などのテイストに近いですね。全体の構成は、1話~4話がいわゆる「問題編」、5話~8話が「解答編」と分かれていて、「問題編」で提示された謎が「解答編」に行くと分かるような仕組みになっています。
「ひぐらし」の根底に流れる重要なテーマとは?
東京大学大学院情報学環の吉田正高・特任講師。大学では戦後の漫画やアニメ、ゲームの歴史をたどる「コンテンツ文化史」の講義を行っている
――実際にゲームをやってみると、いわゆる「萌え系」の美少女キャラが出てきて、学校でのゲーム大会とか登下校中の会話とかが延々と続くので、想像したのと違ってびっくりしました。
吉田 そうなんですよ。「ひぐらしのなく頃に」の面白いところは、リアリズムのある狂気とか殺人みたいなものと、それとは全く違う日常生活というものをうまく結び付けているところです。実は、ストーリーの大半は、陰惨な事件につながるとは思えないような普通の学園生活の話です。そこでこちらの感情移入をさせやすくしておいて、終盤にそれをひっくり返していく、という構成上の面白さがあるんですよね。
――しかし、ほんわかムードの描写がある一方で、金属バットでメッタ打ちにしたり、斧を振り下ろして殺したりと、残酷なシーンも出てきますね?
吉田 そういうシーンだけ取ってしまえば、たしかに残虐だと思います。また、かわいい女の子が豹変して恐ろしい事件を起こすという「落差」が、この作品の特徴の一つだともいえます。でも、それだけではない。作品の根底に流れているテーマは、殺人を肯定するとかというのとは全く違うと思うんです。実は、この「ひぐらしのなく頃に」という作品を貫いているのは、「真実の絆」を探していくというテーマなんですよ。
――それはどういうことですか?
吉田 物語に登場する少年や少女は、それぞれ複雑な事情を抱えています。村の因習の中にどっぷり浸かっている神社の巫女さんの女の子とか、地域社会でがんじがらめになっている子とか、ほかの地域で事件を起こしてしまって引っ越してきた子とか。だけど学校では、そういう事情を仲間に言わないで、表面上だけ楽しく付き合おうとする。
そういう上辺だけの友達関係があるきっかけで崩れて、疑心暗鬼になって殺し合うみたいな話になっていくんですが、そんな中で、お互いが自分をさらけ出していくことで「真実の絆」とは何かを探っていく。「本当のつき合い」とはどういうものか、というのを模索していく。そういう物語なんです。だから、この「ひぐらしのなく頃に」は、1980年代ごろから顕在化してきた地域社会の崩壊とか、親子関係の断絶、さらに2000年代に入って顕著になったネット社会での疎外感とかをうまく取り入れている作品だと思うんですよね。
「ひぐらし」が事件の引き金になっているとは考えにくい
「ひぐらしのなく頃に」の原作ゲームのプレイ画面。「萌え系キャラ」のほのぼのとした会話も数多く登場する
――たしかに作品の全体を通してみれば、そのようなテーマ性を感じとることができるのかもしれませんが、アニメの場合は、最初から最後まで見るとは限りませんよね?
吉田 そこがテレビアニメというコンテンツのむずかしいところですね。テレビアニメは、ゲームや漫画と違って「買う」という行為なしに受動的に見ることができてしまう。公共の電波を通じて、誰でも無料で視聴できるし、たとえば1話から3話までのうち、3話だけを見るということもありえます。すでにゲームで「ひぐらし」に馴染んでいる人達ならともかく、そういう耐性がないところでいきなり見た人は、やはり衝撃があったんじゃないかと思いますね。でも、だからといって、放送中止になるとか特に問題にされることはありませんでした、京都の事件が起こるまでは……
――2007年9月に京田辺市で、16歳の少女が父親を斧で殺害する事件が起きると、KBS京都を始めとするテレビ局は「ひぐらしのなく頃に」のアニメ番組の放送を休止しました。理由は「少女が凶器を持っている場面があり、不快に思われる視聴者がいる可能性を考慮した」というものでした。また、08年1月の八戸市の事件では、「ひぐらし」と思われる漫画本が押収され、事件と漫画の関係を指摘する声が出ました。
吉田 私が視聴していたテレビ埼玉なんて、13話で打ち切られて、いきなり「パタリロ西遊記!」になりましたからね……。でも、「ひぐらし」が事件の引き金になったかといえば、そんなことはないと思うんですよ。環境が犯罪を作り出すという「環境決定論」自体がそもそも間違っていると思いますし、人間の行動ってそんなに単純なものじゃないでしょ?
鉈(なた)とか斧で人を殺す作品なんてほかにもたくさんあります。たとえばスティーブン・キングの「シャイニング」とかそうだし、ドストエフスキーの「罪と罰」だって斧で人殺しをする話ですよ。八戸の事件にしても、「ひぐらし」の漫画は累計で数百万部も売れているのだから、数ある本の中にあってもおかしくはない。一つの作品を見ただけで思い詰めて人を殺してしまうというのは、常識的には考えにくいでしょう。
――京田辺市の事件は08年1月の下旬に家庭裁判所の決定が出て、加害少女の処分が決まりました。そのときの家裁の認定によると、斧を凶器に選んだのは、「興味を持っていたギロチンから連想した」からだそうです。
吉田 「ひぐらし」とは全然違いますよね。結局、なんでもいいんですよ。マスコミからすれば、事件とアニメや漫画を結び付けたほうが話にオチを作りやすいので、そういうことをやるんでしょうね。特にテレビ局は、ワイドショーで扇情的な報道をしておきながら、関連しそうな作品は封印してしまうというのは矛盾があると思います。残念なのは、「ひぐらし」という作品の質とかテーマ性を見ないで、因果関係も分からないうちに、あいまいな基準でフタをしてしまっていることです。
アニメや漫画は「現実社会の鏡」だ
――京都や八戸の事件のとき、「罪と罰」を販売禁止しろという声は聞かなかったと思いますが、アニメや漫画だと小説よりも簡単に規制の対象になってしまうのでしょうか?
吉田 近年では「アニメは世界に誇れる日本の文化だから振興しよう」という方針が政府などからもたびたび発表されていますが、やっぱりアニメとか漫画とかいうものは、小説や実写映画に比べると、まだ一段低く見られているんでしょうね。もちろん、ゲームやアニメとかのコンテンツは昔から規制にさらされて生きているものなので、いろいろ規制がかかってくるというのは分からないでもない。ただ、それが「いわれのない規制」になってしまってはよくない。短絡的に事件とアニメを結びつけるのではなく、慎重に考えないといけない問題だと思います。
――国民的なアニメといわれた手塚治虫さんの「鉄腕アトム」も規制とは無縁でなかったそうですね。
吉田 漫画やアニメやゲームなどの大衆文化に属するコンテンツは「現実社会の鏡」みたいなところがあって、我々のような一般人が持っている不安とか恐怖というものが即効的に出てくるものだと思います。エンターテインメントだから、エラぶって高尚なこところから作らないじゃないですか。
エンターテインメントとして楽しませながら、その裏で、いま起きていることの社会性とか矛盾を人々に見せていく。そういう使命を果たしているコンテンツの一つだと思いますよ、「ひぐらし」は。さらにいえば、今後コンテンツの歴史が教科書的にきちんと包括的にまとめられていく際には、「ひぐらしのなく頃に」という作品は、ある種のメルクマールとして評価されるでしょうね。
【吉田正高氏プロフィール】
1969年、東京都生まれ。早稲田大学卒業後、同大学院文学研究科博士後期課程を修了。東京大学大学院情報学環コンテンツ創造科学産学連携教育プログラムの特任助手を務めた後、現在は、同プログラムの特任講師として「コンテンツ文化史」の講義を担当している。これまで主に、江戸・東京を中心とした都市文化と地域社会に関する研究や、戦後の国内コンテンツを文化史の視点から包括的に考察する研究に従事してきた。