恫喝的な言動や奇抜なパフォーマンスに批判の矛先が向いているプロボクシングの亀田一家だが、数年ほど前まではそうではなかった。礼儀正しく、やさしい面を覗かせていたのだ。「東京に行って100%変わった」と話すのは、亀田興毅選手と大毅選手が幼少期に通っていた大阪のジムの会長夫人だ。J-CASTニュースに明かした内容は、今の亀田一家とはあまりに違い、衝撃的ですらある。
亀田父・史郎氏は「やさしい心の方だったんですよ」
グリーンツダジムは故津田博明会長が設立した大阪・西成区にあるボクシングジム。赤井英和選手を世に送り出したことでも知られる。そして、亀田一家が大阪にいた頃、1999年から2005年に東京の協栄ジムに移籍するまで通っていた場所でもある。亡くなった会長の夫人で、現在同ジム会長の津田セツ子さんはJ-CASTニュースの電話取材に対し、亀田一家の過去を語った。
「お父さん(史郎氏)はちゃんとした方で、(博明)会長のためにお風呂に手すりをつけてくれたり、会長をお風呂に入れてくれたりしましたし、子供もお好み(お好み焼き)持ってきてくれたりしました。お父さんもしょっちゅういらっしゃいましたし、会長を尊敬してらした。やさしい心の方だったんですよ」
夫人によると、亀田父・史郎氏は故会長を非常に尊敬して、しばしばジムを訪れていた。史郎氏は亀田一家を象徴する威嚇的・挑発的な態度で今でこそ知られているが、博明会長とのコミュニケーションではそんな姿は見せることがなかった。2人の会話からは笑い声も聞こえ、史郎氏はいつも丁寧な態度をとっていたという。
亀田興毅、大毅選手についても同様で、ジムにいる2人からは挑発的な言動めいたものをセツ子夫人は目にすることはなかった。我々が目にしてきたような、挑発的な言動やパフォーマンスを見てどう思ったのだろうか。
「もうねぇ、びっくりしました。やさしい子だったからトンカツを(亀田家に)持っていったこともありましたよ。本当にいい子だったから。大毅はまだ小学生だったけど、大毅も(中学生だった)興毅も喜んでくれました」
ジムでは「ありがとうございました」を忘れなかった
史郎氏の躾のせいか、2人は「ジムに入ったら『練習お願いします』『ありがとうございました』はキチッと言っていた」。少年にしては礼儀正しいほうだったようだ。その一方で、ボクシングの素質も高く、「世界チャンピオン」を目指して「努力して一生懸命練習していた」というのである。「(亀田一家は)みんな優しい心の持ち主だった」――セツ子夫人の話から浮かび上がる亀田一家の姿は、礼儀正しく、やさしく、暖かい、ボクシング一家そのもののようにも思える。
亀田一家は東京に移ってからというもの、大阪にいた頃とは全く違う姿になっていたようだ。亀田一家の協栄ジムへの移籍話が出た当時、史郎氏が尊敬していた津田会長は病気のため意識不明状態だった。2007年2月に他界したが、亀田家の人間が津田博明会長の葬儀に来ることはなかったという。セツ子夫人も亀田一家と会うことはなくなった。このころはすっかり一家は「変身」していたようだ。
「東京に行ってから100%変わった」とセツ子夫人が語るように、亀田一家からは丁寧な言葉遣いや態度は消え、挑発的で威嚇的な言動がエスカレートしていく。指導係りの亀田父・史郎氏も観客と乱闘騒ぎを起こすなど、亀田一家の「傍若無人ぶり」は次第にボクシングファンにも反発を産み出すようになってきた。そして、大毅選手が反則行為を繰り返したあの試合へと至る。
亀田大毅選手と史郎氏は2007年10月17日、日本ボクシングコミッション(JBC)で「とりあえず」の謝罪会見を行い、さらに翌18日には、大毅選手が内藤選手に対して直接謝罪した。謝罪会見についてセツ子夫人は、
「(亀田3兄弟と史郎氏)4人とも大毅みたいに頭を丸めて、ネクタイ締めて、土下座でもしないと。でなければ、世間様が納得しませんよ」
諭すようにこういった後で、「初心に戻ってボクシングを勉強して欲しい」と述べている。
亀田一家がかつてそうであったように、礼儀正しくボクシングに打ち込む姿を、いつになったら見られるのだろう。