「ネットカフェ難民」転落 本当に若者の「責任」なのか
――NPOもやい事務局長・湯浅誠氏インタビュー(下)

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   ネットカフェで暮らす「ネットカフェ難民」やファーストフード店で夜を過ごす「マック難民」といった若者たちが話題になっている。彼らはどうして「難民」になったのか。「自己責任」なのか、それとも、どうしようもないことなのか。前回に引き続き、NPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長を務める湯浅誠さんに聞いた。

湯浅誠さんは「自己責任論では問題は解決しない」と語る
湯浅誠さんは「自己責任論では問題は解決しない」と語る

――「ネットカフェ難民」といわれる人が現れたのはいつ頃からでしょうか。

ネットカフェが24時間営業を始めた最初のときから、7年ほど前からだと思います。実際に相談に来た34歳の男性は、6年~7年ネットカフェに住んでいました。実際に世間で注目されたのは2006年からですが、私たちのところに、ネットカフェから初めて相談に来たのは2003年です。かなり前から「ネットカフェ難民」はいたわけです。
私は以前、渋谷を中心に活動していた時がありました。街に野宿する若い人が増えてきて、2000年前後から珍しくなくなってきたんです。90年代だと、「何であなたみたいな若い人が」と驚いたものですが、もう珍しくなくなった。今では、野宿まで行かないにしても、それに近い若者が相当数いるはずです。

働く人たちの横の繋がりもなくなった

――「ネットカフェ難民」といった、日雇い派遣の労働者たちは携帯電話をつかってその日の仕事にありついているようです。昔と変わったことはありますか。

たしかに、携帯電話は日雇いの労働者にとって必需品です。私は日本全国「寄場(よせば)」化してるといっています。「寄場」というのは、東京だと山谷とか、大阪の釜ヶ崎とかは昔から日雇い労働者の町なんです。なぜ、日雇い労働者の街ができるかというと、そこにいかないと仕事が得られないからですよね。働き手を探している業者もそこにいかないと日雇い労働者を集められなかった。
携帯電話で、「直行直帰」のスタイルが可能になったから、「寄場」に住む必要がなくなった。その中で何が変わったかというと、「寄場」でいう「ダチ」「ツレ」という、一緒に働いて、終わったら一緒に飲んで、というような友人関係ですよね、会社とトラブルがあったときに助け合ったりするような関係ですが、これがなくなった。働く人たちの横の繋がりがなくなった。みんな「直行直帰」だから、毎日行く現場が違うし、毎日会う人が違うから、友達ができない。人間関係でも「溜め」「安全ネット」がなくなってしまったんです。

――一方で、若者の「弱さ」「甘え」が、すぐに仕事を辞めて職を点々とするようなフリーターを生み出した、という意見もあります。

なんと言っていいのか難しい問題なんですけど。前にこういう事例がありました。5月に失業、相談に来たのは9月なんですが、その4ヶ月間の間に食べられなくなった男性でした。その間に、彼は3回就職しました。でも、3回の仕事をいずれも3日、3日、1日で自分から辞めてしまっているんです。食うに困っていて、仕事を探していて、実際に採ってくれるところもある。でもなんで辞めてしまうのか、ということですよね
彼に働く気がないのかというと、そうではない。そうじゃなきゃ3回も就職活動はしないわけで、だけど、続かない。「なんで?」と聞いたら、「仕事についていけると思わなかった」。そこがいわゆる「弱さ」の正体ですよね。
私はいつもこう言っているのですが、新しい仕事に就くということは、大変なことです。会ったことがない人たちと、やったことのない作業をやるってこと。多くの人はできると思うんですね。しかしやったことないんだから、そこには実は根拠がない。なんで根拠もないのにできると思えるのかというと、「今までやったことないことやらせてもらえた」「チャンスをもらえた」「やったことないことをやってうまくいってほめられた」といった「成功体験」みたいなものを過去に持たせてもらえた。だから、それを応用して「できる」と思えるんです。
逆に言うと、そういう経験に乏しい人にとっては、「できる」と思えない。本人にとってはこれが、大問題だったりするんですよね。
これは、自己責任論と絡むんです。病気で仕事に行けなくなって解雇されたというと、みんな「しょうがない」というんです。みんな実際に病気をしたことがあるから。「健康管理がなってない」と自己責任論で片付けることもできるはずですが、そう言って批判する人は多くはない。一方で、仕事のことになると、「お前が頑張らなかったせい」と自己責任論で片付けられる。多くの人にとっては「頑張ればできる」ということなんだろうけど、本人にとってはどうしても乗り越えられない。これも広い意味で「貧困」だと思うんですよ。つまり、「意欲の貧困」、精神的に「溜め」がないということなんです。
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