自動車大手のダイムラークライスラーが、米国のクライスラー部門を米投資ファンドのサーベラス・キャピタル・マネジメントに売却することが決まった。1998年にドイツの旧ダイムラー・ベンツと米クライスラーが発表した両社の合意は、「世紀の合併」と衝撃を与え、自動車各社を規模の追求へと駆り立て、世界的大再編の流れを加速させた。しかし、その先頭走者だったダイムラーが「国境を越えたシナジー効果」を引き出せないまま、巨大合併の主役の座を降板する。
提携相手と融和するより、支配者として振る舞う
クライスラー部門の売却は「予想された結末」との声も
なぜ、ダイムラーは失敗したのか。高級車市場で圧倒的な強さを持つメルセデス・ベンツの高すぎるプライドと、提携相手の企業文化と融和するより自社の論理を優先させ、「支配-被支配」の関係を求めてしまうドイツ流のドライな感覚が、相手側に受け入れられなかった結果ではないか。この10年ほどの世界再編の時代を知る日本メーカー関係者からは「あのやり方では予想された結末だ」との声が聞こえてくる。
そもそも高級車のベンツと大衆車メーカー・クライスラーの合併は、発表の会見で掲げた「対等合併」の精神とはほど遠いことがすぐにバレた。会見会場で報道陣向けに配った発表資料に入っていたダイムラーのシュレンプ社長はカラー写真、クライスラーのトップはモノクロだった。これが「ダイムラーらしい挨拶の仕方だ」と話題になった。単なる手違いではない。ダイムラーは2000年に三菱自動車と資本提携した際の発表資料でも、三菱自動車の社長の顔写真をわざわざモノクロで配っている。
米国では、ドイツから乗り込んできたダイムラー幹部がクライスラー内でさっそく主導権を握って、旧クライスラーの社員の反発と士気低下を招き、優秀な人材は次々に流出した。乗用車同士の技術交流も「ベンツブランドのイメージを落とすことはできない」としてクライスラーへ最新技術の供与を行わず、当然、クライスラーの持ち味である量産技術をベンツに役立てる発想にも乏しかった。合併後のクライスラーは好不調の波が激しくリストラを繰り返して、合併直後は約12万人いた人員が8万人に、販売台数も323万台から265万台に落ち込んだ。
現代、三菱とアジアでも失敗の連続
アジアでも2000年に日本の三菱自動車、韓国の現代自動車と資本提携を結んだが、ことごとく失敗した。三菱自動車との関係でいえば、リコール(回収・無償修理)隠し事件などの不祥事が相次いで業績低迷が続く中、主導権を完全に押さえて出資比率を引き上げ、その後、三菱自動車から稼ぎ頭のトラック部門を分社化した三菱ふそうトラック・バスを直接の子会社に収めた。
しかし、肝心の乗用車部門はベンツ・クライスラー・三菱自動車の3社のプラットフォーム(車台)の共通化など、周辺から期待された案はほとんど実現しなかった。ダイムラーが苦手とする超小型車「スマート」を三菱自動車と共同開発した程度。それどころか、車体デザインではベンツを真似て三菱自動車の「三菱マーク」を必要以上に大きく変えて見事にコケるなど、日本市場のマーケティング分析もお世辞にも十分とはいえなかった。結局、2度目のリコール隠し発覚後に三菱自動車への追加支援を打ち切り、手のひらを返すように同社の再建から手を引いた。
現代自動車も、ダイムラーの高飛車な介入姿勢に反発し続け、結局、2004年に提携を解消している。
そもそも、ダイムラーは日本の資本提携先として、最初は当時不振にあえいでいた日産自動車を狙っていた。日産側も一時は出資を期待したが、一気に子会社する方針とグループ会社の大胆な整理を求めたダイムラー側の過酷な条件をのむことができず、日産は断念して仏ルノーとの提携に向かった。
ゴーン改革でその後の日産社内の締め付けは厳しくなったものの、関係者は「フランス企業のルノーらしい穏当な融和策が日産の改革をやりやすくした。ルノーでなくダイムラーを選んでいたら日産もどうなっていたか」と、投資ファンドに身を委ねることになったクライスラーと絡めて巨大合併の難しさを振り返る。