テレサ・テン13年目の「真実」 天安門事件が笑顔を奪った

全国の工務店を掲載し、最も多くの地域密着型工務店を紹介しています

   2007年5月8日は「アジアの歌姫」と親しまれたテレサ・テンの13年回忌になる。テレサをずっと取材してきたノンフィクションライターの有田芳生氏によると、07年はテレサに関連する催しが「10回忌以上」に多いのだという。中国の桂林にテレサ・テン公園が完成、かつて排斥されたテレサの歌も、いまや中国では自由に聴くことが出来る、そんな時代になった。

   07年6月2日にはテレビ朝日系列で「スペシャルドラマ、テレサ・テン物語」が放送される予定だ。原作は有田氏の「私の家は山の向こう テレサ・テン10年目の真実」である。07年3月に文春文庫で発売された。日生劇場では、07年5月4日から22日まで、テレサをモデルにした演劇「何日君再来(いつのひかきみかえる)」を公演、これは大阪公演へと続く。また、「テレサ・テントリビュートコンサート」が東京、神奈川、兵庫で開かれ、アグネス・チャン、マルシアらが参加している。
   テレサ・テン13年目の真実の一端を、有田氏に書いてもらった。

「事件を思い出すと歌えないのです」
ノンフィクションライター 有田芳生

テレサ・テンが最後の住処としたパリのマンションで、ベッドの枕元に貼られていた写真だ
テレサ・テンが最後の住処としたパリのマンションで、ベッドの枕元に貼られていた写真だ

   テレサ・テンがタイのチェンマイで急死したのは、1995年5月8日。ニューヨークタイムズでも「アジアの歌姫」の突然の訃報が掲載された。日本はオウム事件で騒然としているときのことだ。麻原彰晃が逮捕されたのは、それから8日後のことである。わたしはカルト問題を取材していたことで情況に巻き込まれていた。それでも台北で行われた葬儀に参列したのは、テレサの人生を書くことを本人と約束していたからだ。テレサと最後に会った日本人でもあった。葬儀には台湾だけでなく中国大陸や香港からもファンが集まり、その数は3万人を超えた。遺影は微笑みを浮かべている。素顔のテレサがそこにいた。
   わたしがテレサに最初に会ったのは92年7月。フジテレビの地下にある控室でのことだった。番組収録を終えた彼女はこぼれるような笑顔で現れ、ピースサインをすると握手をしてきた。写真で見ていたテレサよりもふくよかさが増しているようだった。そんな視線を感じたからだろう。「ダイエットしているんですけどね」と明るく笑うのだった。パリでの暮らしぶりを語る彼女はとても楽しそうだった。ところが質問で3年前に北京で起きた天安門事件に触れたとき、小さな変化が起きた。
   快活に語っていたテレサの表情が急に曇ったのだ。笑顔から哀しみへ。まぶたには涙の粒が光っていた。

「事件を思い出すと歌えないんです……」

   沈んだ小さな声でそう語った。一昨年パリを再訪したとき、事件当時にパリへ亡命した女性から貴重な映像を手に入れた。「天安門事件3周年」にトロカデロ広場で行われた抗議集会の私的記録だ。そこに喪服を着たテレサの姿があった。司会にうながされてマイクを持った彼女は右手を振り上げ「圧制に妥協するな」と叫んでいる。天安門の学生たちに流行した「血染的風采」(血に染められた姿)を参加者と歌うとき、何度も目頭をぬぐっていた。
   テレサ・テンの笑顔とたおやかさを奪ったもの――それが天安門事件だった。最後の来日となった94年10月、仙台にある県民会館の控室前で彼女はわたしにこう言った。

「これからわたしの人生のテーマは中国と闘うことです」

   体調が最悪だったこともあるだろう。か細い声だった。日本では「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」「つぐない」などで知られる歌手の内奥には、不義を許せないという強い信念が燃えたぎっていたのだ。天安門事件の直前に香港で行われた民主化支援集会。そこに駆けつけ生涯で一度だけ人前で歌った「私の家は山の向こう」。
   かつて「精神汚染」として排斥されたテレサの曲は、「山の向こう」=中国ではいまや自由に聴くことができる。桂林ではテレサ・テン公園も完成した。北京ではファンクラブが公然と活動をしている。テレサの曲を歌う女性歌手も現れた。テレサが存命ならあの明るい笑顔でピースサインをしながらこう言うだろう。

「アリタさん、わたしの闘いはまだ続きますよ」

有田芳生(ありた・よしふ)1952年京都生まれ。フリーランスのジャーナリスト。日本テレビ系の「ザ・ワイド」に出演。著書には『私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実』(文藝春秋)、『「コメント力」を鍛える』(NHK生活者新書)など。


姉妹サイト