「SANKEI EXPRESS」は、20~30歳代の若者層をメイン・ターゲットに据えている。若者層の活字離れ、新聞離れが言われて久しいが、「それに楔を打つのが使命」と平田篤州(ひらた・あつくに)編集長は話す。若い読者層をどのように取り込んでいくのか、そのためにどんな紙面をつくっていくのか。
「SANKEI EXPRESS」は若者層をターゲットにしている
―― 若者の活字離れが進んでいます。
「活字離れというより、新聞離れですよね。メールやブログに『字』はあふれています。むしろ若者は積極的に『字』を受け入れています。では、どうして新聞離れなのか。つくり手側が読者のニーズに応えてこなかったからといえます。活字メディアに身を置く者として、本当に必要とされるコンテンツを考える、作り出すことが大切だと考えます。新聞は、私たちが今、享受している自由や平等、民主主義といったものをはぐくみ、守るために大きな役割を果たしてきたと思います。そんな社会的使命を持つ新聞ジャーナリズムがすたれていいはずがありません。将来の日本を背負って立つ若者が新聞を読まないのは大きな損失です。新聞の良さと必要性を訴えていくため、EXPRESSが活字ジャーナリズムの先陣を切ったのです」
―― ターゲットを若者に置いていますが、記事は硬派なテーマが中心ですね。
平田編集長は「若者は活字離れというより、新聞離れ」と話す
「新聞は硬派でなくてはならない、との思いがあります。社会正義の実現や人権、平和を守っていくが新聞の使命です。それから外れることはないのです。しかし、テーマが硬派であるがゆえに、徹底的にわかりやすくする必要があります。難解なことを、わかりやすくつくるには時間が必要です。大げさに言えば、24時間ネタを見定めながら、取り上げるコンテンツに狙いをつけていくのです。コンテンツの見せ方、切り方、読ませ方を固めていくなかで、わからないことを、わかりやすくするには編集者が『そうしろ』と言い続けるしかありません。そうでないと、編集者のメッセージが読者に伝わることはありません。ここが勝負どころといえます」
―― 強い指導力が必要です。よく踏み切れましたね。
「紙面はEXPRESSの40人の編集記者と、産経新聞本紙やサンケイスポーツ、夕刊フジ、フジサンケイビジネスアイなどのオール・産経の記者によってつくられています。わたしは本紙の編集会議もビジネスアイやサンスポの会議にも出席しているので、その日どのような記事があがってくるのか、把握できます。その上で、EXPRESSが必要とする記事はこちらが指示して、書いてもらっています。各編集局には、2つの新聞をつくっているという意識をもってもらっています。『産経新聞をつくり直して「産経グループ新聞」をつくっている』といったところでしょうか」
―― フリーペーパーという選択はなかったのですか。
「EXPRESSは32ページのうち、広告のページを原則2ページにしています。創刊当初から、販売収入を柱にした新聞づくりを目指しています。広告を軽視しているわけではありませんが、コンテンツにこだわった結果なのです」
―― WEBとの関係はいかがでしょうか。
「いま新聞記者は通信社の記者のように動いています。紙媒体ではどうしてもインターネットの後追いになりますし、産経のWEBサイトには『イザ!』があります。EXPRESSの立ち位置はどこか。紙面は既存の新聞と同じ気持ちでつくっていますが、その一方でわたしはEXPRESSを『ニュースのポータルサイト』みたいなものだと思っています。どんなに小さな記事でもサイトやブログへ誘導できますし、ブログであれば記者や読者の本音を書き込めますから、本当に伝えたいことを、字数の制限なく伝えることもできます。このWEBとの連動も意識してURLを表示しやすいようにヨコ組みにしたということもあります」
―― いま、一番やりたいことは何でしょう。
「わたしたちは、既存の新聞と遜色ない情報量を保ちながら、内容は、より良質なものをつくるという気概をもっています。そのうえで、読者の声を生かして日々紙面を見直しています。EXPRESSでは、いいと思ったことはどんどん取り入れていきたいのです。創刊以降、読者の意見を参考に次々と紙面を見直しました。その一方で、デスクや編集者、記者、カメラマン、整理スタッフといった内部のコミュニケーションをしっかりとって、読者に伝えたいことを、わかりやすく、しっかり伝えることができるシステムを構築していく。編集者の息遣い、体感が伝わる紙面づくりが必要だと思っています。想いと想いがぶつかり合う紙面でないと読まれません。永久革命のようなもので、止まったらおしまいなんです」
【平田篤州(ひらた・あつくに)氏プロフィール】
1975年4月産経新聞社入社後、東京本社政治部次長、論説委員、編集局次長兼社会部長を歴任し、2004年には日本工業新聞社へ。完全子会社化して、「日本工業新聞」の「フジサンケイビジネスアイ」へのリニューアル創刊を手がける。1951年生まれ。