小沢一郎はそのぶっきらぼうな外見や、断定的なものの言い方から「愚直で不器用な剛腕政治家」と見られがちだ。ところが経済政策に関しては「無節操」といえるほど融通無碍(むげ)である。よく言えば状況対応型。経済状態や政敵の主張を睨みながら、自分の座標軸を動かすプラグマティストである。
小沢登場で国会の論戦は盛り上がるのか
慶応大学経済学部を卒業した経済学士。だが国会議員になってから経済を積極的に語る場面は少なかった。自民党時代、小沢の得意分野は政策でなく、党務・閥務であり、権力闘争や利権の配分に主眼が置かれていた。これは自民党議員の一般的特徴で、小沢にかぎったことではない。
昔は「大きな政府」にどっぷりつかる
政策は官僚組織に丸投げし、官僚組織の人事権を掌握することが長期政権を続けた自民党のやり方。上流の基本政策は役人に任せ、下流の政策効果は自らの選挙区や支持母体(業界)に利益が落ちる構造を作り上げた。方向付けは官僚が行うが、具体的な「箇所付け」に政治家が関与する。
道路やダムの建設計画は役所が行い、どこに道路やダムを作るか、という優先順に政治家が口を挟む、という構造である。小沢一郎は、田中角栄や金丸信という公共事業重視の利権型政治家の引き立てで若くして自民党幹事長という要職に付いた。当時は政官業一体となった自民党のど真ん中に位置し、「財政依存の大きな政府」にどっぷり浸かっていた。
ところが小沢が93年に書いた「日本改造計画」は、規制緩和・自己責任・小さな政府に力点を置く「新自由主義」の考えが底流にある。戦前からの官僚依存体質では政治は改革できない、政府の人員を減らし、官僚の権限を縮小する規制緩和で競争を促進し、経済の効率化を図るべきだ。併せて市場開放と内需拡大の必要性を主張した。
今の小泉純一郎首相の主張を先取りするような政策だった。「改造計画」を政官業一体でやって来た過去がどうつながるか、考えるのは無駄である。小沢の立場が変わったから主張を変えただけである。このころ小沢は最大派閥である竹下派内の権力闘争で破れ、新派閥旗揚げ、自民党離脱という政治的転機にあった。新党立ち上げには、自民党に対抗する政策が必要だった。官僚組織内部で旧来の路線を疑問視してきた改革派官僚の知恵を借りて作ったのが「日本改造計画」である。