歴史
マイカーブーム、11年で10倍以上の高成長
トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎(右)と、その父で自動織機の発明者である豊田佐吉(左)
日本の自動車業界は第2次世界大戦後、わずか30年の間に奇跡的とも言える高成長を達成、1983年には米国を抜いて世界最大の自動車大国となった。成長の原動力となったのは、モータリーゼーションの開花と輸出の成長だ。戦後間もなくは、トラックを中心とした小規模生産にとどまっていたが、1955年の国民車育成要綱、1961年の割賦販売法の制定を経て、1960年代の高度成長時代にモータリーゼーションが開花した。1960年にわずか40万台だった国内販売は、1963年に100万台を達成し、1966年には200万台にまで拡大した。
モータリーゼーションが始まったころは、トラックなど法人需要が中心で、乗用車もハイヤー、タクシーなどに利用されることが多かったが、日産自動車のサニー、トヨタ自動車のカローラが登場した1960年代後半からは本格的なマイカーブームが到来した。国内販売は乗用車、商用車合わせて68年には400万台を突破、1969年には初めて乗用車の販売台数が商用車を上回った。1960年にわずか48万台だった国内生産台数も、国内需要の拡大で1970年には500万台の大台を突破、わずか11年で10倍以上の高成長を遂げている。
輸出が伸びて、国内生産1000万台乗せ
1960年代後半から70年代になると、輸出が急速に成長、国内生産拡大の牽引役となった。なかでも大きいのが、カローラ、サニーなど乗用車の拡大だ。1965年当時、輸出は19万台にとどまっていたが、乗用車が輸出の中核となると、輸出は急速に拡大し、1970年には100万台、1973年には200万台に突破した。その後も輸出増の勢いは衰えず、1976年には371万台、1980年には600万台に迫った。国内生産もこうした輸出の拡大を背景として1970年の528万台から1980年には1104万台にまで拡大、米国に次ぐ自動車生産国となった。国内生産の拡大とともに日本製自動車の地位も向上している。
トヨタ自動車が1955年1月に発表した初の大量生産乗用車、トヨペットクラウンRS
当初、輸出は米国車に比べて低価格であることを武器として米国市場でシェアを獲得していった。ところが、1971年のニクソン声明をきっかけとした変動相場制への以降によって円高が進展、また1973年には第1次オイルショックが発生し、原材料輸入国である日本にとってコストが上昇した。
こうしたなか、日本の自動車業界では、NC(数値制御)工作機械、ロボットの導入などによる多品種少量生産への対応、社内提案制度による原価低減や品質の改善、エンジンと燃費改善、ボディの合理的設計など省エネへの対応、排ガス規制への対応などを積極的に行った結果、日本車の国際的な競争力は大きく向上した。
貿易摩擦が激化、現地生産の時代に
1980年代は日本車の世界市場でのシェアが拡大、「トヨタ生産方式」に代表される日本型の生産システムが欧米で注目されるなど、日本自動車業界の黄金時代となった。
多く歴史的な車やレーシングカーを展示している日産自動車座間記念車庫
米国市場でシェアを大幅に拡大した1970年代後半から米国との間で貿易摩擦問題が表面化。1980年、GM、フォード、クライスラーのビッグ3が巨額の赤字を計上すると、貿易摩擦はさらに激化、1981年5月には対米乗用車輸出の自主規制策が打ち出された。
自主規制によって輸出に枠がはめられるなか、日本メーカーは輸出車種を大衆車から中高級車に切り替えて採算を維持する一方、1982年にホンダがオハイオ州でアコードの生産を開始したのをはじめとして次々に米国での現地生産に乗り出した。ホンダに続いて1983年には日産自動車がテネシー州シマーナ、1984年にはトヨタ自動車がカリフォルニア州でGMと合弁の現地生産を開始した。1980年代後半になると、マツダがミシガン州、三菱自動車もクライスラーと組んでイリノイ州に進出したほか、富士重工業といすゞ自動車が合弁でインディアナ州で現地生産を開始している。
一方、成熟化が懸念されていた国内市場も、乗用車の複数保有の広がりによって安定した伸びを示した。1980年代後半になると、バブル景気のなか、1988年1月に日産自動車が発売したシーマが高級車としては記録的な売り上げを記録するなど、より高級な「3ナンバー車」(普通車)の売り上げが急速に拡大した。輸出はプラザ合意に端を発した円高の進展で1985年の763万台をピークとして大きく減少したが、国内販売は1980年の502万台から1990年には778万台にまで拡大、国内生産も1990年、1349万台と過去最高を更新している。
バブル崩壊後、供給過剰になる
バブル崩壊後の10年は、「ジャパン・アズ・No.1」の象徴ともなった自動車業界にとって試練とともに、次の21世紀に向けた雌伏の時代となった。1990年に778万台に達した国内販売は、バブルの崩壊とともに減少に転じ1993年には647万台にまで減少した。一方、米国メーカーは1980年代の後半からリストラを徹底するとともに開発段階から日本のシステムを採用して開発期間を短縮化、デザインの活性化も図って、GMのサターン、フォードのトーラスなど品質を重視した車が市場に投入された。1993年には日本車を上回る低価格を実現したネオンをクライスラーが発売、米国市場で巻き返しに転じ、日本車の輸出は1994年には500万台の大台を下回ることになった。国内生産は国内、輸出の不振で大きく落ち込み、1990年の1349万台から1994年には1055万台と300万台近くも減少した。バブル期に計画したマツダの防府工場の増設、日産自動車の九州新工場、トヨタ自動車の九州新工場が稼働していたこともあって、供給過剰が表面化、1995年には日産自動車が座間工場の閉鎖に追い込まれている。
国際的再編が進行、11社体制が崩壊
日産の業績はその後、一時、持ち直したが、1990年代後半、米国販売の不振が表面化した。そして、1997年の金融システム不安、さらに1998年の独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併という内外での激震が走ったなか、1999年、仏ルノーとの資本提携を発表する。
中古自動車販売店
RVのヒットで一時、日産自動車を追い上げた三菱自動車も米国での販売不振、リコール問題で国内販売が低迷に転じた結果、業績が急速に悪化、2000年にダイムラー・クライスラーの傘下入りを決断した。さらにGMのいすゞ自動車、スズキに対する出資比率の引き上げ、GMと富士重工業との資本提携と再編が相次いだ結果、これまでの業界地図は一変した。
日本の自動車業界では、1966年に日産自動車がプリンス自動車を合併して以来、トヨタ自動車と日産自動車の2強体制が確立。以来続いてきたトヨタグループ(トヨタ自動車・日野自動車工業・ダイハツ工業)、日産グループ(日産自動車・日産ディーゼル工業・富士重工業)、独立系(ホンダ、三菱自動車、スズキ)、外資系(マツダ=フォード、いすゞ自動車=GM)の11社体制(マツダは1979年、フォードの傘下に、三菱自動車は1993年、クライスラーから独立)は崩壊した。
現地生産の拡大、強化で国際企業へ脱皮
一時、1ドル90円を切る水準まで円高が進むなか、1995年には日米自動車交渉が決裂し、日本の自動車メーカーは対日制裁リスト(日本からの高級車13車種に対する100%関税の賦課)の発表という緊急事態にまで追い込まれた。対日制裁はトヨタ自動車をはじめ日産自動車、ホンダ、マツダ、三菱自動車が策定した自主経営計画「グローバルプラン」によって回避することができた。
当初、北米での生産能力の増強、外国製部品の調達拡大など自主計画は日本メーカーへの大きな負担となると見られていたが、実際には日本の自動車メーカーが真の国際企業に脱皮する好機となった。トヨタ自動車をはじめとして日本メーカーは既存の工場の生産能力を引き上げたことに加えて、トヨタ自動車がインディアナ州、ホンダがアラバマ州への進出を決定するなど現地生産の強化に乗り出すとともに、エンジンなど重要部品の現地生産も強化している。ここで注目されるのは、日本メーカーが新たな工場や増設ラインで生産することに決めた車種は、ビッグ3の得意分野とされた高級車やピックアップトラックなどRVであることだ。これでRVが主流をしめている米国メーカー追撃の態勢を整えることができたうえ、重要部品の現地生産を開始することで経営基盤を強化することも実現している。