歴史
かつては強い影響力を持っていた経済四団体
特定の目的を持って結成された経営者の組織を経営者団体という。中でも、経団連、日経連(日本経営者団体連盟)、経済同友会、日本商工会議所を「経済4団体」といい、戦後間もないころから、政治や社会に対して大きな影響力を行使してきた。経団連は政治献金を中心に政治との付き合い、日経連は賃上げや雇用問題に対して「財界労務部」としての労働組合対策、経済同友会は経営者個人の立場から忌憚のない政策提言、日商は中小企業の声を吸い上げ政策に反映する、というように4団体それぞれ固有の「業務」が確立していた。
ところが、90年代に入って自民党が退潮し、財界とりわけ経団連の存立基盤は揺らぎ始めた。同時に、自民党との癒着に対する批判が強まり、これが「政治献金斡旋廃止」の一因にもなった。一方、春闘もかつてのような労組との対決色が薄れたため、日経連も地盤沈下が目立ってきた。こうしたことから、経団連と日経連は2002年5月に統合し、「日本経済団体連合会」(日本経団連)が生まれた。現在は日本経団連、経済同友会、日本商工会議所を経済3団体と呼んでいる。
日本経団連の概要
1946年に結成された経団連は、その最盛期に「財界の総本山」と称され、会長は「財界総理」と呼ばれるほどの強い影響力を持っていた。一方、日経連はもともと労働組合に対抗するため1948年に地方の経営者協会がまとまる形で、経営者の全国団体として設立された。両組織は2002年に統合し、日本経団連となった。
日本経団連は金融、製造業、貿易など幅広い業種の団体と企業から構成され、会員数は1623社・団体(04年5月現在)に上る。日本の大企業のほとんどが加入している。貿易摩擦、国際問題、国内の政策運営などについて経済界の意見をまとめ、政府に提言している。
日本経団連会長の横顔
トヨタ自動車会長 奥田碩(おくだ・ひろし)
1932年生まれ。一橋大学卒、55年トヨタ自動車の販売部門であるトヨタ自動車販売に入社。
奥田碩・日本経団連会長
経理畑を歩み、72年に比国マニラ駐在となり、左遷されたと社内では見られていた。しかし、ここでの働き振りを豊田一族の豊田章一郎現名誉会長に認められ、営業、海外企画部門で頭角を現す。95年にトヨタ自動車社長就任、99年5月に日経連会長。同年6月トヨタ自動車会長に就任。販売台数、利益を大幅に伸ばし、米国ビッグ3と並ぶ世界的自動車会社に育てた。2002年5月に日本経団連会長に就任。
経済同友会の概要
戦後間もない1946年、日本経済の再建のため、新進気鋭の経済人が結集して発足した。経営者が個人の資格で参加して、個別企業や特定業種の利害を超えた幅広い視野から政策提言を行うのが特色だ。ただ、提言内容は出身企業や団体を拘束するものではなく、単なる「言いっぱなし」に終わる心配も強い。かつては「開店休業」状態と揶揄された時期もあった。影響力を持つには、会員にそれだけ強い個性が求められる。会員数は2005年1月現在で1388人。
経済同友会代表幹事の横顔
北城恪太郎(きたしろ・かくたろう)日本アイ・ビー・エム会長
1944年生まれ。慶応大卒、67年日本アイ・ビー・エム入社。技術に明るく、30代半ばまではシステムエンジニアを務めた。米国のIBM本社で会長補佐を務めたこともある。
経済同友会代表幹事の北城恪太郎氏
93年日本アイ・ビー・エム社長に就任すると、パソコンの普及で業績が悪化していた同社の再建に努めた。ハードからソフトへという業界の流れに対応した方策を次々打ち出し、その手腕を評価された。99年に同社会長。
経済同友会では2000年に副代表幹事に、03年3月に代表幹事に就任。「新事業創造立国」を旗印に、ベンチャー企業の育成に力を注いでいる。日本の経済界を代表する国際派の一人。
日本商工会議所の概要
東京、大阪など全国の主要都市にある524の商工会議所を会員とする全国機関。会員数は2005年1月の時点で154万人。わが国最初の商工会議所は1878年に東京、大阪、神戸で設立された。それ以後に名称、組織などさまざまな変遷があったが、1954年に商工会議所法が定められ、法的根拠を持つ公益法人となった。中小企業の利益代表としての性格もあり、その立場からの政策や活動を推進するほか、各地の会議所の活動支援、相談、経営指導、技能検定の業務も行っている。
日商会頭の横顔
日本商工会議所会頭の山口信夫氏
山口信夫(やまぐち・のぶお)
1924年生まれ。敗戦後ソ連に抑留され、3年間の捕虜生活を送る。引き揚げ後、一橋大学に入学、52年旭化成工業(現旭化成)入社。経営多角化を進める同社の中で、住宅事業をまかされ、この部門を最大の収益源に育て上げる。周囲の評は「バランス感覚があって、人使いがうまい」。1992年代表取締役会長になり、2001年7月日本商工会議所会頭に就任。