「自衛隊が経験したもっとも有事に近い任務」といわれた自衛隊のイラク派遣(2003年12月~09年2月)で、駐屯自衛隊が5年にわたる宿営地での任務を1000本のテープに記録していた。防衛省に保管されこれまで公にされなかったが、その映像が初めて開示された。
幸い犠牲者を一人も出さずに任務を終えたが、隊員たちにとって『戦場』は帰国後も続いた。緊張、不安、恐怖の連続のなかで、精神的な不安定を抱えたまま帰国し、28人が自らの命を断っている。現在論議されている集団的自衛権の行使が容認されれば、自衛隊の任務の質が根本的に変わり、さらに過酷な任務が待っているというわけだ。
非戦闘地域なんかじゃなかった!隊員に隠して棺も持参
米英が中心になって進められたイラク攻撃で、自衛隊はフィセイン政権崩壊後に人道復興支援を目的にイラクの南部サマーワに派遣された。当時の自衛隊トップだった先崎一元統合幕僚長は「自分が経験したもっとも有事に近い任務」と振り返る。
10年間公開されなかった1000本に及ぶ記録は、大半が医療支援や給水、道路の修復など人道復興支援活動の様子だが、詳しく見ていくと、これまで明かされてこなかったイラク派遣の実態が記録されていた。
派遣から間もない04年3月のある深夜、突然、鉄帽、防弾チョッキの着用命令が下され、「A警備の当番は直ちに指揮所に集合」のアナウンスが流れた。A警備とは不測の事態に緊急で警戒に当たる警備態勢で、この日の夜、武装勢力が宿営地を攻撃する可能性があるという情報が現地警察から伝えられたのだった。その1か月後の4月には迫撃砲が宿営地に撃ち込まれた。迫撃砲やロケット弾による攻撃は13回にも及んだ。派遣当初から宿営地は狙われていたのだ。
先崎元統合幕僚長は「政治的には非戦闘地域といわれたが、実際は対テロ戦が行なわれていた地域への派遣で、派遣部隊から見れば何が起きてもおかしくなかった。戦闘地域への派遣という気持ちを持ちながら危機意識を共有しながら臨んだ」と語る。
犠牲者が出ることも想定し、遺体をどのように運ぶか、その手順、国主催の葬儀も検討された。宿営地には極秘裏に棺10個を準備していたという。