福島・双葉病院の悲劇―原発事故避難で死亡した50人の寝たきり患者

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   福島第1原発から5キロにある双葉病院と病院が運営する介護老人保健施設で、3月の事故直後に起った悲劇は、当時あまり大きくは報じられなかった。津波の被害があまりに大きかったからだ。

移動バスの中で「座ったままなくなっていた」

   双葉病院と施設には180人の患者がいた。多くは寝たきりや介護が必要な高齢者。本来、移動はできない人ばかりだ。そこへ3月11日、 いきなり政府の緊急避難指示が出た。スタッフは院長以下17人だけ。バスが来たのは12日。まず自力で歩ける患者を送り出した。その直後に1号機が爆発した。病院は患者を自衛隊員に託す。混乱の中で13日から翌未明にかけて4人が亡くなった。

   避難先は30㌔離れた保健福祉事務所。すでに他の施設からの高齢者が800人もいた。そこで20キロ南のいわき市の高校を目指したが、20キロ圏内は通行禁止で、バスは大きく迂回して200キロを6時間をかけて走った。この移動と到着後に46人が亡くなった。出迎えた看護師は「座ったまま亡くなっている人が真っ先に目に入った」という。点滴の管理もなく、タンの吸入もできず、水分の欠乏、ショックなどだった。

   岩手・大舟渡の老人施設では、中庭に患者を集めたところへ津波が襲い44人が亡くなった。生き残ったスタッフは「あのとき、ああしていれば救えたのに…」という思いがいまも消えない。全国老人福祉施設協議会の調査では、東北の被災3県で避難の際に200人が亡くなっていた。

   先頃開かれた福祉関係者のシンポで注目されたのは、犠牲者を出さなかった施設の体験だった。宮城・岩沼の赤井江マリンホームは海岸から250メートル、津波に襲われたが、49人の寝たきり老人は全員無事だった。皮肉にも、「避難計画にしばられなかった」ためだった。

   マリンホームの避難計画では、避難先は15キロ離れた介護施設になっていた。車イス用の車 にマットレスを敷いて、2、3人 づつピストン輸送するしかない。ラジオの津波警報では猶予は1時間だった。そこで移動先を1.5キロ離れた仙台空港にした。40分で49人全員を搬送し終わった。津波が来たのはその20分後だった。「自分たちで守ることだと気づかされた」とマリンホームのスタッフは言う。

「救えたはずなのに…」生き残ったスタッフに自責の念や心のキズ

   96人を抱える静岡・磐田市の特別擁護老人ホームでは、月に1度避難訓練をしている。従来の避難計画は火災対策が主で、戸外に避難すればよかったが、いまは患者を3階へ運び上げることも想定している。車イスのままがいいのか、背負った方が早いか…。訓練では患者1人をスタッフ2人でかかえて階段を駆け上がった。20人運ぶのに17分かかった。96人だと1時間以上かかる計算だ。訓練のたびに新しい課題が見えてくるという。

   この問題を調査しているびわこ学院大学の烏野猛准教授は、「国も自治体も指針がない以上、カギとなるのは平時のリスクマネージメントの応用だ」と言う。スタッフ1人ひとりがリスクを意識すること。誰も助けにきてくれない前提でスタートした方がいいとも言う。

   犠牲者を出したケースでは、生き残ったスタッフの自責の念や心のキズも大きい。また、誰を先に助けるかという命の優先順位 (トリアージ)も課題だ。双葉病院の鈴木市郎院長は、「たとえ余命幾ばくもない人でも…」と言っていた。これが原点だろう。いま双葉病院に入るには防護服がいる。乱雑に移動されたベッド、散乱するシーツや毛布…。あの日がそのまま凍り付いている。

ヤンヤン

NHKクローズアップ現代(2011年12月1日放送「救えたはずの命~『寝たきり避難』の課題」)

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