この日(2011年3月23日)の朝の段階で、東日本大震災の死者は9199人、不明1万3786人となっている。これだけでも明治三陸津波の死者・不明2万1959人を超えた。だが、ここでいう不明とは、親族などから届け出があった数だ。届け出のない安否不明者はまだまだいる。
「死者・不明・避難所」でもない1万人余どこへ
岩手県で最大の被害を出した陸前高田市では、きのうも遺体安置所を大勢の人が訪れたが、確認できたのはざっと半数だという。遺体の損傷が激しいうえ、被災していたときに何を着ていたかも定かでないからだ。家族を捜している被災者は「(地震と津波のとき)一緒にいなかったからねぇ」と言う。
陸前高田市の死者は804人、不明1700人。避難所にいるのは1万1516人、合計1万4020人だが、人口は2万4246人である。1万0226人はどこへいったのか…。市は手書きで生存者名簿を作成、住民基本台帳と照合して安否不明者を割り出そうとしている。家族全員が被災した、あるいは1人暮らしの場合は、どれにもひっかからないからだ。人口の実数は2万3000人台 ともいわれるが、町の人口の半分近くの安否も行方も分からない。
町役場が崩壊した南三陸町でも、人口1万7382人に対して、死者・不明1178人、避難者は9584人だ。差し引き6000人 以上が安否不明である。現地に入った金沢大大学院の宮島昌克教授は、「津波被災の特徴は、沖に流されてしまう数が多いことで、全貌の把握は非常に難しい」という。
司会のみのもんた「連絡がつかないわけだ。亡くなったわけでも、避難所にいるのでもない」
死亡届受理が再開後の初仕事
陸前高田には奥平邦彦レポーターがいた。晴れてはいたが、今朝は氷点下だったという。戸羽太市長(45)がカメラの前に立った。自身も3階建て市庁舎の屋上まで逃げて命拾いした。2人の息子は無事だったが、妻は不明のままだ。屋上まで水に浸かった市庁舎は使えず、目下プレハブの仮庁舎。職員の3分の1が死亡・不明のなかで、市長は市の機能再構築と災害対策とに取り組まないといけない。死亡届の受理が最初の仕事になった。
「国への要望」を聞いたところ、市長は「大臣に来ていただいて、避難所に1泊してもらうのがいちばん」と話した。「奥さんのことは……」と聞かれると、こう話した。
「市職員にも消防団にも家族を捜している人はたくさんいる。いまそれを後回しにしてみながんばっています」