昨日の午後、白金の明治学院大学の授業が始まる直前、毎日新聞記者から、新潮で「朝日新聞阪神支局襲撃犯」だと告白した島村征憲氏が、新聞2紙と週刊誌の取材に対して、自らの証言を全面的に否定したことについてのコメントを求められた。
事件報道では定評のあった新潮が、あのように根拠薄弱な「証言」を信じ、十分な裏付けもとらずになぜ掲載してしまったのかを徹底的に検証し、すべてを誌面で公表するべきだ。この「事件」は、週刊誌を含めたジャーナリズム系雑誌全体の編集力や取材力の劣化を象徴するもので、これによって、部数減による大きな赤字と名誉毀損裁判などで高額化する賠償金に苦しむ週刊誌の休刊が、さらに進むことは間違いないなどと話した。
罪は万死に値する
今日発売の文春によれば、「116(阪神支局襲撃事件)は、オレが若い衆にやらせたけど、オレは実行犯ではない。だって、あの頃は北海道の登別に家があったんだから、アリバイだってあるよ。それが、いつのまにか実行犯にさせられてしまったんだから」と、手記は新潮側のでっち上げで、自分はそんなことを話してもいないというのだ。
このようないいかげんな人間を信じ、大スクープと謳って4週に渡り「独占告白」を載せ続けた新潮の罪は万死に値するといわざるを得ない。
新潮側は、この記述の信憑性は「島村氏のインタビューを録音したテープによって証明することができます」と何度も言い募っているが、話を聞いて、その裏付けをとることなど、取材のイロハではないか。聞けば、この記事は、早川編集長マターで、他の編集部員はほとんど知らされていなかったという。来週号の新潮誌上で、手記を載せるに至った経緯等について掲載するという。20日には早川氏が編集長を辞めるが、それだけで決着というわけにはいかないだろう。
私は、1995年に文藝春秋が発行していた『マルコポーロ』が「戦後世界史最大 のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」という記事を掲載したことで、休刊に追いつめられたことを思い出す。
だいぶ前から、某新聞社の新書に、雑誌ジャーナリズムについて書いてくれと依頼されている。しかし、なかなか筆が進まないのは、講談社の「僕はパパを殺すことに決めた」や今回のような新潮のケースを見るにつけ、雑誌にジャーナリズムはあるのかという疑問が湧き、筆が重たくなって書き進めることができないのだ。
佐野眞一氏も今月発売の『世界』で、新潮が問題の手記を掲載したとき、「日本の出版ジャーナリズムはついに未曾有のカタストロフィーを迎えたな、ということを強く実感した」(「雑誌ジャーナリズムは蘇生できるか」より)と書いている。また昨今の編集者の劣化を取り上げ、「編集者の劣化とは、一言で言えば、ネタを持ち込んだ人物の信憑性と人間性を見破る眼力の劣化のことである。(中略)『週刊新潮』編集部は、日本の出版ジャーナリズム全体に回復不能な信用失墜をもたらすパンデミック(感染爆発)を発症させてしまったのではないか」と危惧している。
長々と書いてきたが、この「事件」は、一編集部の問題ではなく、すべての出版・雑誌に関わる人間が、自分の問題と捉え、堕ちきってしまった信用を、どのようにしたら回復することができるかを真剣に考えるべきだと思うからだ。