4. 二人歩いた道と江陵の海

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江陵の白い砂浜
江陵の海岸には柔らかな砂浜が広がっていた

   江陵(カンヌン)の浜辺は、白い砂丘が長く延び、その先に青黒い海が分厚く広がって、小粒の巻き貝をゆでて売る屋台にハングルの看板がなければ、フランスのノルマンディー海岸かなんぞにいるようだった。巻き貝を紙コップ1杯分、500ウォン(約65円)で買う。尻のところを切ってあり、身をちゅるっと吸い出して食べる。海の味そのまんま。あまりにのどかで美しく、この海の先に、北朝鮮、中国、ロシアがあることを、忘れそうになる。

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戦争をくぐりぬけ生きてきた

   姜(カン)先生の父親は、戦前、抗日独立運動の組織のなかでも、爆弾闘争に走って、最も過激だといわれた義烈団のメンバーだった。本人は国内にいるにいられず、ずっと中国国内で暮らしていた。その息子である姜先生もまた、反骨精神に富んだ少年で、釜山市内の中学を放校になる。素行が理由にされたが、父親のことが背景にあったに違いない。そのころ、教師は全員日本人だった。母方の祖父が、孫が無学なまま終わるのを悲しみ、晋州(ジンジュ)の中学へ転校させる。「当時は金塊より値打ちがあった米を10俵、牛車に積んで、釜山からはるばる100キロの道のりを晋州まで運んだそうです。何のため? 学校の先生へ、賄賂ですね」。そしてすぐ終戦。釜山大学の予科から大学に進むところで、朝鮮戦争勃発。開校まもない陸軍士官学校に入った2歳下の弟は、戦乱の中で行方不明となったままだ。

駅のホームの目前に海が迫る
駅のホームに降り立つと目前に海が迫っていた

   山口先生の父親も戦前は中国にいた。もともと英語の教師で、旧満州の新京(シンジン)、いまの長春(チャンチュン)で高等学校の校長を務めていた。先生自身も幼時、そこで育ったが、終戦時は、軍のエリートを育てる陸軍幼年学校に生徒として在籍、家族と離れて、ひとり東京で暮らしていた。身を寄せる場を失って、父方、母方の親戚を頼って東北や関西を転々、ようやく東京外国語大学にもぐり込んだ。卒業後は、父親と同じ英語教師の職を大阪で得て、筆者などに、ディケンズやモームを読ませることになる。

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