オリンピックが開幕し、世界の視線がブラジルに集まっています。今日取り上げる曲は、ずばり「ブラジルの思い出」というピアノ曲集です。先週登場した、オネゲルとおなじ「フランス6人組」の仲間であった、ダリウス・ミヨーの作品です。
戦火のフランスを離れてブラジルへ
パリ音楽院でオネゲルと同窓生だったミヨーは、オネゲルが北のノルマンディーの出身だったのに対し、南フランス、プロヴァンス地方の出身でした。マルセイユで生まれて、エクス=アン=プロヴァンスで育ったのです。ガリアと呼ばれたフランスはカエサルの征服によりローマ化された国で、フランス語はラテン語の子孫ですから、「ラテン」の国ですが、特に南フランスは「ラテンのり」が強く、隣国イタリアやスペインなどとも通じる雰囲気を持っています。ミヨーも陽気なキャラクターの人物でした。
1909年、彼が17歳の時、音楽の勉強をするためにパリ音楽院に進みます。パリで聴いた当時の最新の音楽、ラヴェルや、ストラヴィンスキーなどに刺激をうけますが、同時に「プロヴァンス人」らしい人懐こさを発揮して、直ぐに様々な友人たちに恵まれます。オネゲルとの生涯にわたる友人関係の他にも、音楽家では6人組のメンバー、ジョルジュ・オーリックやジェルメーヌ・タイユフェールとも仲良くなり、さらには、文学の世界にも友人ができました。詩人のレオ・ラティルや、フランシス・ジャム、そしてポール=クローデル、小説家アンドレ=ジッドなどです。彼らの詩に音楽をつける、という形の活動がすぐに実を結びました。
彼がまだ音楽院に在学中、1914年にヨーロッパでは第1次大戦がはじまります。作曲家ラヴェルなどは志願して戦地に赴き体調を崩し、ミヨーの友人のラティルは戦地で命を落すなど、国土が戦場となったフランスに暗い影を落としました。ミヨーは、小さいころから病気の影響で歩行に困難があったので、徴兵されることはなかったのですが、音楽院を卒業してすぐあと、外交官でもあったポール=クローデルがブラジル大使に任命され、リオ・デ・ジャネイロに派遣されることになり、彼から秘書としてこないかという誘いを受けます。戦争のフランスを離れて、2人はブラジルに向かいました。
「ラテンのり」が加速した2年間
もともと南仏人のミヨーが、ラテンアメリカに2年間暮らして、ますます「ラテンのり」が加速しました。彼は、音楽院の時代から研究していた「復調」=異なる2つの調を重ねて演奏することによって独特の不思議な雰囲気を醸し出す技法を編み出したのですが、そこに、ブラジルで聴いたサンバなど、現地の音楽がインスピレーションを与えました。特に、リオで聴いた、「ブラジルのショパン」と呼ばれるピアニスト、エルネスト・ナザレの演奏には強い影響を受けたようです。ヨーロッパのクラシックにはない、ブラジルの響きがあったからです。ちなみに、ナザレはミヨーが訪れたころ、映画館で演奏していたのですが、そこでの仲間に、このコラムにも登場したのちの大作曲家、ヴィラ=ロボスがチェロを弾いていました。
2年間のブラジル体験を経て、ミヨーが作曲したのが、ピアノ曲集「ブラジルの思い出」です。原語ではサウダージとなっていますので「ブラジルの郷愁」とも訳されます。「コパカバーナ」や「イパネマ」、「コルコヴァード」などの、外国人にもよく知られた地名を持った曲が12曲で構成されています。ミヨーの復調を使った独特の響きで、ブラジルの風景が描写されています。
ミヨーはユダヤ系だったため、第二次大戦の時も、フランスを離れてアメリカに逃れますが、そこでもバイタリティーをいかんなく発揮し、戦後も旧大陸と新大陸を行きつ戻りつの生活をしつつ、生涯で、500曲近い曲を残しました。どこまでもエネルギッシュなミヨーと、今、世界のアスリートが集結して盛り上がっているブラジルが出会った「ブラジルの思い出」、ぜひ、聴いてみてください。
本田聖嗣