11月22日(2013年)に、警視庁がこんな不祥事を公表した。交番勤務の巡査部長が、部下に指示して放置自転車3台を持ち去らせ、交番内で修理してカギを取り外し、繁華街や駅前に置き直した。なぜこんなことをしたのか?自転車を窃盗摘発のおとりに使い、持ち去り現場を押さえようと考えたのだ。
結局、その目論見はうまくいかず、部下の1人が同僚に打ち明けたために不正が発覚した。巡査部長ら4人が占有離脱物横領罪で書類送検され、巡査部長は停職処分を受けて辞職。調べに対して「自分の犯罪摘発実績が他の署員に比べて低調だったので、何とかして犯人を検挙したかった」と供述した。部下たちは当然いけないことだとは分かっていたが、「上司の指示なので断れなかった」という。
「こうしたい」と「こうすべき」の葛藤の末に
人が不正をするかしないかは、突き詰めれば、「(ルールに反してでも)こうしたい」という利己的で直情的な自分と「ルールは守るべきだ」という冷静で倫理的な自分との力関係によって決まるといえるだろう。どっちが勝つかは、当人の人間性やその時々の状況による。崇高な倫理観を備え、常に冷静でいられる人なら、どんな状況でも誠実に行動し、不正を犯すことはないだろう。しかし、それは理想であって、なかなかそうはいかない。人は欲求に負けてしまいやすい弱い生き物だ。
「こうしたい自分」に邪悪な力を与えるものに、プレッシャーやインセンティブがある。
「こうしないと自分が苦境に立たされる」という追い詰められた状況や「こうすれば自分がメリットを得られる」という誘惑に駆られる状況だ。いずれも保身や私利私欲といった自己中心的な感情を高めてしまう。
冒頭の不正では、巡査部長が感じた「摘発件数を増やさなければ自分の評価が悪くなってしまう」というプレッシャーが悪さをし、部下をも巻き込んだ。部下は、「上司の指示に従わなければ自分の立場が悪くなる」というプレッシャーに負けてしまった。警察のように上下関係の厳しい組織ではこのようなリスクが高まりやすい。
「こうしたい」+「見つからない」が倫理観を骨抜きに
不正をしても見つからないと思うと、「こうしたい自分」はさらに勢いづく。巡査部長はきっと、「警察官が放置自転車を撤去しても周囲に怪しまれることはない」「部下もだまって従うだろう」と高をくくっていたのではないだろうか。
不正を思いとどまる最後の砦が倫理観だが、このような状況では麻痺してしまい、「どうせ捨てられた自転車だ。犯罪摘発に活用して何が悪い」などと正当化が幅を利かせるようになる。かくして、不正のトライアングルが完成し、人はダークサイドへと足を踏み入れてしまう。
誠実で地道な努力を一番の人事評価項目に
人の行動は、自分が何によって評価されるかにより左右される。企業では、人事評価項目がプレッシャーやインセンティブの源になり、不正リスクにも大きな影響を及ぼす。
巡査部長の供述からみて、警察官の評価項目として「犯罪摘発件数」が重要な要素になっていると考えられるが、それが行き過ぎると「なんとしても摘発件数を上げろ」というプレッシャーが蔓延し、今回のような極端な行動をとる警察官を出してしまう。検察による証拠ねつ造や自白の強要といった問題の背後にも、「何としても有罪にしろ」という同じような強い力がはたらいている。
そもそも、「犯罪を未然に防ぐこと」がもっと評価されるべきなのではないか。確かに、犯罪を未然に防いだことをどのように評価するかは難しい。摘発件数という目に見える項目で評価する方が楽だ。しかし、件数を形式的に評価して点数をつけてしまうと、報告書や数字をでっちあげるインセンティブを高めてしまう。件数の上げるためにどんな努力をしたのかにもしっかりと目を配らなければならない。
簡単ではないが、上司が部下の日頃の勤務ぶりに細かく目を配り、地道な行動をきちんと認めて評価に反映させることが大切である。そして、当たり前のことだが、誠実であることを一番の人事評価項目とし、誠実な行動へのインセンティブ、不正の抑止力を高める工夫も必要だ。(甘粕潔)