京都大学の不正入試が話題になっている。試験中に携帯電話から外部の第三者にサポート要請したというアレである。まあ、よくないことは事実なのだが、この手の話を聞くたびに、なぜ入試だけこんなに盛り上がれるのかな、と疑問に感じてしまう。
というのも、「必修の単位落としたけど内定取ってるから許してもらった」とか「スポーツ推薦枠だと授業出てなくても単位もらえる」とか、出口に関するその手の話は山のように存在するからだ。かつての「なべやかん明大裏口入学事件」の時もそうだったが、どうやら日本人にとっては、出口より入口の方が重要らしい。
教育の中身が問われないのは「終身雇用」だから
だが、これはおかしな話だ。
普通に考えたら、入口より出口の実力で判断した方が合理的なのは明らかだ。普通の常識人なら「調理師学校受験時の成績」よりも「調理師学校卒業時の成績」の方を重視するだろうし、もっといえば食べログなどのクチコミサイトで現在の実力を見るだろう。
実際、先進国では、入口をなるべく広くしつつ、出口を引き締めて品質を維持するという大学制度が一般的だ。なぜ日本人は、入口を重視するのか。
理由は、日本の大学制度が、学び舎というよりも一種の身分制度だからだ。
日本企業の多くは「終身雇用」という閉じた環境の中で、新人を自社向けの人材としてゼロから教育していく。だから、そこそこの素材があればよくて、大学教育の中身までは問わない。
これが、採用選考時に成績表なんて見ず、初任給が一律からスタートする理由である。要するに正社員という身分制度に、大学も緩やかに結びついているようなものなのだ。
ちなみに、上位の正社員身分に入れれば、不況時にはエコポイントのようなバラマキで支援してもらえるし、それでもダメならJALのように税金で救済してもらえることもある。正社員身分といってもいろいろランクがあるが、上の方はそれなりに美味しい身分ではある。
「中で努力しない人が泣きを見る」世の中に
「よい大学に行って大手に就職しろ」という親が今でも少なくないことを考えると、恐らく国民の大多数は、この緩やかな身分制度を本能的に理解し、(消極的ながら)支持しているのだろう。だからこそ、その身分を不正に入手しようとする行為に反応してしまうのだろう。
これが、「勉強してないのに卒業するなんてけしからん」という人はいないけど、「勉強してないのに入学するのはけしからん」という人が多い理由である。
もっとも、変化の兆しは見えている。秋田県の国際教養大のように、徹底した実務教育により入口より出口を重視する大学が(2004年の新設にもかかわらず)大手企業から高い評価をされている事実からは、企業が「素材」より「即戦力性」にシフトしはじめていることが見て取れる。
ゆくゆくは、「入試にせよ新卒採用にせよ、重要なのは入り口だけ」という身分制度は終焉を迎えるだろう。その時に泣きを見るのは、入り口でインチキをした奴ではなく、中で努力をしていない人間なのは言うまでもない。
城 繁幸