昭和天皇の末弟で皇族最高齢の三笠宮崇仁(たかひと)さまが2016年10月27日朝、亡くなられた。100歳だった。5月に急性肺炎と診断され、入院されていた。
戦前は大本営参謀などを務めた陸軍軍人。戦後は古代オリエント史の研究家で、「宮さま学者」として国際的に活躍した。しばしば「戦争の反省」を語り、戦後民主主義の洗礼をいち早く受けた「民主的な皇族」としても知られた。
終戦直前、息詰まる攻防があった
1915年、大正天皇と貞明皇后の第4皇男子として生まれた。長兄の昭和天皇とは14歳、秩父宮や高松宮とも10歳以上の年齢差があった。皇族身分令で、皇族男子は原則として陸軍または海軍の武官になることが定められていたので、学習院を経て陸軍士官学校に進む。1936年から39年にかけて千葉県習志野にあった騎兵第十五連隊に勤務。
43年1月には支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に。44年1月に帰還し、大本営参謀。このころ一部若手将校らが東条英機首相暗殺を計画、その動きを知った三笠宮さまは「いかに東条氏の施策に欠陥があるにせよ、天皇が首相、もしくは陸相に親任したわけだから、抹殺は天皇に対する反抗」と考えて憲兵隊に伝え、事件は未遂に終わった。
45年5月25日の大空襲で赤坂の住居は全焼。以後、コンクリート製の防空壕で暮らす。終戦直前、息詰まる攻防があったことが明らかになっている。なお戦争継続を主張する陸軍は、同じ陸軍の軍籍を持つ三笠宮さまに最後の期待をかけた。8月12日、徹底抗戦派の参謀が門前で待ちかまえ、皇室会議に出かける三笠宮さまを説得しようとするが、「天皇の意図は和平にある」と断固拒否。13日夜には、阿南惟幾陸相自身も三笠宮宅を訪れ、天皇に御翻意をお願いしていただきたいと訴えた。しかし、三笠宮さまは強く叱責。
陸相秘書官の手記によると、「会談の後(阿南陸相)は、・・・自動車が走り出しても、しばらくは無言であった。官邸に着く少し前になって漸く『三笠宮から陸軍は満洲事変いらい大御心(天皇のお考え)にそわない行動ばかりしてきたとお叱りをうけたが、そんなにひどいことを仰せられなくてもよいのに』とただそれだけを低い声で語った。・・・ひどくこたえたようであった」。
阿南陸相は15日に自決。三笠宮さまはのちに「感無量なるものがあった」と回想している。
満員電車で東大に通う
終戦時、三笠宮さまは29歳。耐乏生活が続いたが、一転、学究の道を目指す。きっかけは中国赴任中に感じていた疑問だ。白人の宣教師はなぜ人里離れた山奥に1人とどまり、中国人を相手に神の愛を説くのか。あるいは八路軍(中共軍)はなぜ自給自足で日本軍に抵抗し、民衆、特に婦女子にたいする軍紀は厳粛に保たれているのか。
人間の情熱を駆り立てる根本的な要因を探求してみたいと考え、東大文学部の研究生に。まずヨーロッパの宗教改革の勉強から始めた。さらに原始キリスト教、ヘブライ史、オリエント史へとさかのぼる。旧約聖書はヘブライ語で読み、英語は駐日カナダ代表部の首席ハーバード・ノーマン氏に、フランス語はフランス文学の泰斗、渡辺一夫氏に教わった。
当時の心境について、「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていた私は、何から何まですべてを新しいものの中から探しもとめねばならなかった」と語っている。
住んでいた目黒から、満員電車やバスに乗って東大へ。時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転して通った。お弁当持参。皇族としての公務もあり、授業に出席できない時は友人にノートを借り、夜のうちに百合子妃に写してもらった。難解な専門用語だらけ。「それは教室で筆記するより大変だったろう」と、結婚70周年の所感で妻への感謝をつづっている。
紀元節復活に反対の立場
戦後の三笠宮さまは、早い時期にリベラルなスタンスに変わっていたようだ。近年明らかになった資料では、新憲法案を採決した46(昭和21)年6月8日の枢密院本会議で、新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張していた。ただし、新憲法案については、「どうしてもマッカーサー元帥の憲法という印象を受ける。反対もできないが、賛成も良心がゆるさない」とも述べ、採決では棄権した。
60年ごろ、紀元節復活の動きが強まった時は、歴史学者として「反対」の立場。保守の重鎮・大野伴睦氏のところを突然訪れ、「2月11日というのは科学的根拠がない。国家権力で祝日とするのは間違い」と自ら説明し、「紀元節万歳」の大野氏の翻意を促したこともある。大野氏と親しく、実際にその様子を目撃した読売新聞記者・渡辺恒雄氏は「三笠宮殿下は非常に民主的な人」と記している。
84年に出版した『古代オリエント史と私』(学生社)には「戦争への反省」があちこちに出てくる。騎兵第十五連隊の教官時代、「日本軍による戦争は正義のいくさである」と部下に訓示していたが、「今もなお良心の呵責にたえない」「戦争の罪悪性を十分に認識していなかった」。南京の総司令部に勤務したときは、肝試しに「生きた捕虜を銃剣で突き刺す」などの日本軍の残虐行為を知らされたほか、多数の中国人捕虜を満洲の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられ、「『聖戦』のかげに、実はこんなことがあったのでした」と記す。
あるとき、日本軍の戦利品の中に「勝利行進曲」という映画があった。重慶政府(蒋介石の中華民国政府)制作。日本軍の残虐行為をテーマにした宣伝映画だが、「シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えませんでした」。東京への出張を命じられたとき、この映画を携行し、大元帥陛下にもお見せしたという。
実際、南京から離任するときには現地の将校たちに講話。日中戦争が解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と分析していたことが、近年発掘された文書資料で明らかになっている。
この文書は当時、回収されたといわれるが、陸軍内部ばかりでなく日本の上層部にも回覧され、非常に大きな衝撃を与えたという。
2000年6月、日中友好に力を注いだ画家、平山郁夫さんの古稀の会でも、「戦時中、中国での日本軍の残虐行為を間近にして、身の縮む思いをしました。そのことを昭和天皇に報告した」と語っていた。
東京女子大に「宮さまうどん」
気さくな人柄で知られ、自然体で多くの人と付き合い、ファンが多かった。東京女子大で教えていた時は、学内食堂で「きつねうどん」をよく食べていた。「宮さまうどん」と呼ばれた。フォークダンスが大好きで女子学生たちと踊ることもあった。
研究者として、何度も中東を訪れ、ヘルメット姿で発掘作業に関わった。『古代エジプトの神々-その誕生と発展』(日本放送出版協会、88年)、『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、02年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、08年)など多数の著書や翻訳書、監修本を残した。日本オリエント学会の会長や、東京都三鷹市に設立された中近東文化センターの総裁も務めた。
近年は最長老皇族の立場だった。ご夫妻には男性3人、女性2人のお子さま方がいたが、三男高円宮憲仁さまは02年11月に急逝。長男寛仁さまは12年6月に、次男の桂宮宜仁さまは14年6月に亡くなっている。男系の男孫はいなかった。長女の甯子さまは日本赤十字社社長近衛忠煇夫人、次女の容子さまは 裏千家家元千宗室夫人。
寛仁さまの長女、彬子さまは日本美術史を専攻し、オックスフォード大で博士号を取得、研究者の道に進んだ。三笠宮さまの衣鉢を継いで中近東文化センター総裁や日本・トルコ協会総裁を務めている。