世界的に知られる演出家、蜷川幸雄さんが2016年5月12日午後、都内の病院で亡くなった。80歳だった。
「NINAGAWA・マクベス」など多数の作品を手がけ、海外でも高い評価を得ていた。
「稽古が始まると、いつもと同じでガンガンやっていた」
蜷川さんは埼玉県出身。開成高校を卒業した1955年に「劇団青俳」に入団し、俳優として活躍した。小劇場運動が盛り上がりをみせていた68年、故・蟹江敬三さんや、のちの妻である真山知子さんらとともに「現代人劇場」を創立。69年の「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビューを果たした。
74年、日生劇場の「ロミオとジュリエット」の演出で大劇場に進出したのを機に、活動の場を商業演劇に移した。現代劇からシェークスピア、ギリシャ悲劇まで幅広い作品の演出を手がけ、その数は延べ約300作品にもおよぶ。
83年の「王女メディア」を皮切りに海外にも進出。国際的評価も高く、2002年には英国から名誉大英勲章第3位を授与された。2004年に文化功労者、10年には文化勲章を受章している。
心臓や肺などの不調で1990年代後半から入院や手術を繰り返してきた。2014年11月には香港公演時にホテルで下血し、帰国後に入院。15年12月にも軽度の肺炎で入院し、やむなく公演を延期した。
それでも病に屈することはなかった。
「稽古場には車椅子でやってきて、鼻には酸素チューブを入れている。けれど、稽古が始まると、いつもと同じで怒鳴りながらガンガンやるんだ」
2015年9月~10月の舞台「NINAGAWA・マクベス」での様子を語るのは、蜷川作品の舞台美術を何度も担当してきた妹尾河童さん(85)だ。
「周りはハラハラしていたけれど、彼はとにかくクタクタになるまでやっていた。走っていなきゃ倒れてしまう自転車と同じで、最後までフルスピードで仕事をやり続けた」
「鬼の蜷川」とも称された蜷川さん。最後まで熱のこもった演技指導は健在だったようだ。