「これ200万円、これで選挙事務所開いてくれませんか」
野坂昭如さんは新聞紙の包みをテーブルの上に投げ出した。越山会2人の幹部は座布団で後ずさり、仰天している。
議員バッジにマッチで火をつける
「越山会のおらたちが、そんなことできないこっつぉ、先生、勘弁してくださいよ」
動じない野坂さん。参議院議員を辞して、衆議院選挙に打って出る。本気だと、胸についていた参議院のバッジを外して、マッチで火をつけた。越山会の2人は腰を抜かした。
1983年12月のことである。
2015年12月9日に亡くなった野坂昭如さんについて、挿絵をよく描いていた山藤章二さんは「いかがわしさのカリスマ」だったという。小説家にとどまらず、活動の範囲は広く、どこでも「物議を醸す」、それが野坂さんの魅力だった。なかでも田中角栄の新潟三区衆院選に乗り込んだ「物議」「いかがわしさ」は際立っていた。
新潟3区で田中角栄に挑む
当時、週刊朝日に野坂さんの連載コラムがあった。担当のデスクが私で、野坂邸へ原稿を取りに行くこともしばしばあった。ある日、野坂さんから相談したいと電話がかかってきた。訪ねると、いつもと様子が違う。暘子夫人がお酒と手料理のつまみを持って応接間に現れた。
1983年10月、田中角栄元首相はロッキード事件で懲役4年の実刑判決を受け、11月に衆議院が解散された。いわゆる「田中判決解散」である。野坂さんの相談は、「新潟3区に出馬したら、票は取れるか」なのだが、飲みながらの話だから、そう、はっきり言ったわけではなかった。元首相の金城湯池、新潟3区魚沼地方を、私がくまなく取材した記者だと知っていたからだ。新潟3区の投票行動は地縁血縁でがんじがらめ、浮動票はほとんどないと言われていた。私は都会ほどでないにしても、浮動票はゼロではなく、野坂さんが泡沫候補に終わるとは思わなかった。
現ナマ200万円を野坂さんに渡した相手
まず、現地を歩いて様子を探りたい。連れて行ってくれ。それを連載コラムに書く。冒頭の目撃談はその時のことだ。親しい越山会幹部2人を旅館に呼んで、野坂さんに引き合わせた。町の芸者3人を呼んで、大いに話は弾む。角栄信奉者の2人は、雪国政治の難しさを主張して譲らない。「ぼくが立候補したらどうします」と2人に迫っても、先生、そんなに甘いものじゃない、と笑っている。酒に酔った冗談でしょうと言っているうちに、ハプニングは起きた。
野坂さんは芸者に「部屋にレインコートがある」と持ってこさせた。そのポケットから出したのが200万円の新聞包みだった。
選挙結果は元首相の22万票に対して、野坂さんは2万8000票、次点、泡沫ではなかった。元首相の生誕地、西山町では217票で2位。批判票を食った。
この話は後日、大きくなって、週刊誌の記者が野坂さんを連れて行き、新聞紙の金は数百万円、芸者は総揚げの20数人だったとか週刊誌などに書かれた。
野坂さんに新聞包みの現金の話を聞いた。たまたま新潟に行く直前、参議院議員会館の事務所に貸していた200万円を返しに来た人がいた。それは、当時、同じく参院議員の青島幸男氏だったと。
J-CASTニュース発行人 蜷川真夫