2014年6月にユネスコの世界文化遺産に登録される見通しとなった群馬県の「富岡製糸場」について、「Chikirinの日記」で知られる人気ブロガーのちきりんさんが「元祖ブラック企業」と評し、インターネット上で話題になっている。
発言に関しては「認識違い」だとの反論も少なくないが、実際、富岡製糸場の労働環境はどのようなものだったのだろうか。
働いていたのは「本当にエリートのお嬢様」?
ちきりんさんは4月26日、「富岡製糸場って『元祖ブラック企業』じゃん。それが世界遺産になるってことに、ブラック企業撲滅運動系のみなさんは、どんなご意見をお持ちなのかな。やっぱり『絶対反対!』運動を始めるのかな?」とツイートした。
すると、フォロワーからは「私もネガティブなイメージしかなくて、世界遺産ときいてびっくりしました」「当時、多くの女工さんが過労で倒れ、近くのお寺の墓地に沢山のお墓があるそうです」などと同調する意見が寄せられる一方で、「それは野麦峠(編注:女性工員の過酷な労働環境を描いた作品「あゝ野麦峠」)の製糸工場で、富岡製糸工場にはエリートのお嬢様しか入れず、かつ労働環境も快適だったそうです」「富岡製糸場の女工さんはある意味『勝ち組』エリートだったかと」などと、反論する声も相次いだ。
こうした指摘に、ちきりんさんは「そーなんだー! でも、それは本当にエリートのお嬢様だったのかしらん??」「っていうか、富岡市&製糸場としては全力で『決してブラックではありませんでした!!!』ってことにしたいんだろうと思います」との見方を示した。また、当時の「エリート」についても「明治の頃、富岡製糸場で働いてた女性もエリートなら、同時代にアメリカに留学して教育者となった津田梅子(津田塾の創始者)もエリートなわけで、どんな人をエリートだと理解するかは、人によって違うってことでしょう」とコメントした。
官営当初は週休1日の約8時間労働
「エリート」だったかどうかはともかく、実際の労働環境はどのようなものだったのだろうか。
富岡製糸場は明治5年(1872年)に明治政府が設立した、初の官営器械製糸場だ。当時の日本にとって、絹の元となる「生糸」は最大の輸出品。西欧から最新技術を導入し、指導者育成に力を入れながら、品質改善と大量生産を実現させた。この製糸場を支えたのは「伝習工女」と呼ばれる、全国各地から集まった若い女性工員たちだ。
職場環境もフランス式で整備されていたそうで、4月12日配信の朝日新聞デジタルの記事では、富岡製糸場総合研究センター学芸員の岡野雅枝さんが「官営期の前半に限れば、影響を与えたフランスよりも先進性がある近代的工場でした」とコメントしている。設立当初から日曜日は休みで、就業規則上の労働時間は、当時のフランスの12時間より短い1日7時間45分だったそうだ。
また26日配信のMSN産経ニュースでは、設立当初の労働環境について「週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、食費や寮費などは製糸場が負担していた」と伝えている。これだけ見れば、明治期としては快適な労働環境といえそうだ。
だが、1日約8時間という労働時間は長く続かなかったようで、岡野さんは官営期の後半には2時間ほど増えたと指摘している。また、21年後の明治26年(1893年)に民間に払い下げられると、労働環境は以前より厳しくなったようだ。
日本の労働環境がおしなべて悪い時代だけに、現代の基準で「ブラック」と判断するのはどうなのか。ちきりんさんの発言には反論、疑問が出されている。社会学者の古市憲寿さんは「官営時代と払い下げ時代を分けて考えてないですね。批判されている方も、している方も」と指摘している。