君ヶ洞剛一(きみがほら・たけいち)さんは、岩手県釜石市にあるホタテやワカメの通信販売業「ヤマキイチ商店」の専務だ。東日本大震災の津波で、社屋が全壊する被害に見舞われた。絶望的な状況にあっても、「仕事をやめるつもりは、全くありませんでした」と振り返る。
独自ブランド「泳ぐホタテ」はじめ、良質な海産物を出荷できる体制が整うまで、あえて販売を再開しなかった。職人肌の姿勢を貫き、顧客の信頼は厚い。
「被災地だからかわいそう」にすがりたくない
津波が釜石を容赦なく飲み込もうとするなか、君ヶ洞さんは顧客リストを抱えて避難した。「友人や家族の連絡先と同じように大切」だったからだ。会社は津波で流されたが、社員は無事だった。社長で父の幸輝さんが「復活しなければ、生まれてきた意味がない」と語りかけてきたのが強く印象に残った。
震災前から、ホタテをはじめ新鮮な海の幸で評判だった。良質の海産物を仕入れ、厳しい目で選別したものだけを出荷に回す。価格は安くないが、高品質を約束する。このポリシーは、事業再建時も守られた。一部商品は早期の出荷再開も可能だったが、幸輝さんは「買い手の『被災地だからかわいそう』という同情にすがることになる」と却下。純粋に「欲しいから買う」と思ってもらえるまで、商品の品質向上の努力を続けたのだ。父の考え方に、君ヶ洞さんも賛同したという。
2011年11月にイクラの発送を再開、そして12年7月、満を持して地元産のホタテの再出荷にこぎつけた。常連客は待っていてくれた。「ヤマキイチさんのホタテだから」と注文してくれるのが、何よりうれしかったという。
事業を軌道に乗せようと奮闘する一方で、「新しい仕組みをつくるチャンス」ともとらえた。地元の漁業を活性化したいと常に考えていたからだ。そこで重視したのが、若手漁師の育成。良質のホタテを提供する漁師に報いるため、仕入れでは最高値を支払っている。養殖は手間がかかるが、労をいとわず品質を追求する「職人漁師」をひとりでも多く増やしたい。高い値付けは、漁師にとってはひとつのモチベーションとなるはずだ。
金銭面だけでなく、仕事への誇りを持たせる仕掛けも計画しているという。
「高級レストランに漁師さんの一家を招待するとします。そこでは漁師さんが育てたホタテが使われている。運ばれてくる料理を子どもたちが見れば『お父さん、すごい、カッコいい』と思うでしょう」
漁師のプライドを高め、仕事への意欲を刺激する――。実際にノルウェーでは、漁師が年収1000万円を超え、あこがれの職業になっていると話す。
大企業依存から脱却し「釜石ブランド」の海産物がほしい
震災を期に、君ヶ洞さんはコミュニティー再建にも力を注ぐ。「NEXT KAMAISHI」という団体で、地元の人たちと街づくりのために知恵を絞る。
実は震災前、こうした動きは見られなかった。
「釜石でも、隣近所との付き合いが緊密だったとは言えません」
と明かす。いまひとつ疎遠だった住民たちが、地元の危機に「気取っている場合じゃない」とばかりに立ち上がった。仕事の合間を縫って各自が時間をつくり、真剣に話し合う。そこから「身の丈に合った活動」として、2013年に地元の祭りを3年ぶりに復活させた。まずはひとつの成果を形として出した。
本業を通じての故郷の発展にも、考えを巡らせる。釜石は「鉄の街」として、歴史的に大企業の恩恵を受けてきた。だが、いつまでも企業に依存する体質には疑問を呈する。漁業に従事する身としては、同じ三陸でもサンマや毛ガニで有名な宮古、大船渡のように「釜石ブランド」の海産物が欲しい。今は、高品質の魚介類を釜石で収穫、加工、出荷する仕組みを整えたいと望んでいる。
古くからの顧客との信頼関係は、震災を経ていっそう固くなるように努めてきた。これからは自分の会社だけでなく、釜石や三陸の漁業発展へ貢献すると意気込む。
「今はもう、支援をしてくれた人たちに恩返しする立場です」
君ヶ洞さんは、こう強調した。(終わり)