2002年の1度目の日朝首脳会談から13年9月17日で丸11年。金正日総書記が拉致を認めて状況は打開されたかのように見えたが、拉致被害者家族が2004年に帰国して以降、目立った進展がない状態が続いている。
1回目の首脳会談を北朝鮮側で仕切ったとされるのが「ミスターX」と呼ばれる人物だ。実は11年頃からミスターXの「銃殺説」がささやかれてきたが、最近出版された北朝鮮専門記者の著書などで、そこに至るまでの経緯が少しずつ明らかになってきた。やはり黒幕は、金正恩第1書記の「後見人」だとされる張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長のようだ。
「ミスターX」、「共和国英雄」称号を2回も受ける
会談は、日本側は田中均・外務省アジア大洋州局長(当時)、北朝鮮側は「ミスターX」が数十回にわたって秘密交渉を繰り返した末に実現した。日韓メディアがのちに報じたところによると、「ミスターX」の正体は柳敬(リュ・ギョン)国家安全保衛部副部長だとされ、この首脳会談を実現させて功績として最も位が高いとされる「共和国英雄」の称号を受けている。その後も、(1)北朝鮮国内の米国や日本のスパイ網を摘発した(2)抑留した米国人記者の身柄解放と引き換えにクリントン元大統領を平壌に呼び寄せることに成功した、など理由は諸説あるが、2度目の共和国英雄を受けた。北朝鮮でも珍しい人物だ。
だが、11年1月頃に柳敬氏の運命は一転、権力争いの犠牲になる形で突然処刑されたという。処刑のニュースは11年5月頃、朝鮮日報をはじめとする韓国メディアが、確度の高い情報として相次いで報じていた。
さらに12年7月に朝鮮日報が報じたところによると、2010年11月の延坪島砲撃事件で悪化した南北関係を打開するために首脳会談を模索。その交渉のためにソウルを訪問したが、そのときの行動がスパイ罪に問われた模様だ。
処刑が行われたらしいことは各紙とも報じているが、背景については説明がまちまちだった。
例えば東亜日報は、
「正恩氏を中心にした軍部の強硬派は、対話局面が展開されれば立場が弱くなることを憂慮していたと、北朝鮮情報筋は分析している。このため、権力掌握のために対話を止めさせる挑発をしたり、対話派を締め出しているのだという」
と、他国と交渉を通じて問題を解決しようとする柳敬氏を正恩氏が嫌った、との見方だ。朝鮮日報は、
「粛清の恐怖を利用し、幹部たちの引き締めを図り、金正恩氏による後継の基盤を固めるのが狙い」
という大学教授のコメントを紹介する一方、別の記事では、柳敬氏が「国家安全保衛部副部長」という情報・武装組織を束ねるポジションにあったことを正恩氏が警戒したとの見方だ。いずれにしても、処刑の意思決定をしたのは正恩氏だと読める。
「別荘の一つで拘束され、間もなく自宅で一族と共に銃殺の憂き目にあった」
13年7月に出版された北朝鮮専門記者の著書では、別の見方だ。この著書は、07年から12年まで朝日新聞のソウル特派員を務めた牧野愛博記者の「北朝鮮秘録」(文春新書)。
「1月下旬、『将軍様が2人で食事をしたいとおっしゃっている』という連絡を真に受けた柳敬は、訪れた特閣(別荘)の一つで拘束され、間もなく自宅で一族と共に銃殺の憂き目にあった」
といったように、あらゆるエピソードが詳細に描写されているのが特徴だ。
同書によると、韓国政府は、柳敬を罠に陥れたのは「張成沢しかいない」と分析しているという。
張成沢氏は非常に有能な人物だとされ、金正日氏もその存在を恐れていたようだ。そのためか、金正日総書記は保衛部と朝鮮労働党に対して、張成沢氏を見張るように命じていたという。保衛部の事実上のトップが柳敬氏で、党の側で監視の特命を受けていたのが党組織指導部第1副部長を務めた李済剛(リ・ジェガン)氏だ。李済剛氏は、柳敬氏が失脚する半年も前の10年6月に「交通事故」で謎の死を遂げており、書籍では
「そして次の標的になったのが柳敬だった。いわば、張成沢の政治闘争の犠牲者と言えた」
と結論付けている。つまり、党のキーパーソンに続いて保衛部のキーパーソンが失脚し、張成沢氏が政敵を2人も「消した」と受け止められている、ということだ。11年12月金正日氏が死去し、正恩氏の体制が不安定な今、張成沢氏が権力を「独り占め」しているのに近い状態ではないかと見る向きが多いようだ。