皇太子さまから正田家に送られてきた写真 「これはどういう意味なんでしょう」
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(5)

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   「こんな写真が皇太子さまから送られてきたのですが、これはどういう意味なんでしょう」――当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、美智子さまのご実家、正田家関係者からこんな「逆取材」を受けた。

   佐伯さんも知らない話で、目を丸くして聞いていた。佐伯さんに聞く第5回は、佐伯さんがいつの間にか、取材を通して正田家とお妃選考首脳との間の「触媒になっていた」話をきく。

「私どもも知りたいことがいくつもございますので」

佐伯さんが、美智子さまのご実家邸内で撮った写真は、ほどなく朝日新聞に掲載された。
佐伯さんが、美智子さまのご実家邸内で撮った写真は、ほどなく朝日新聞に掲載された。

――前回では、1958年5月20日に美智子さまの父で日清製粉社長の英三郎さんと初めて会ったときの話が出てきました。

佐伯 英三郎さんは、判で押したように「とんでもない。夢みたいな話です」と4、5回繰り返すだけで、何も情報は取れなかった。20分程度で引き揚げ、2階の社長室を出て正面の広い階段を下りていると、途中で足音が聞こえた。階段を下りきった頃に、その男性(ぼくより少し年上の30歳代に見えた)が名刺を差し出してきた。「社長秘書」とある。岩城晴一さんといって後に日清製粉の監査役をやった人だ。ほどなく分かるが、社長秘書といっても、正田家の執事のような役目も果たしていた人だ。
   その時、岩城さんは「私どもも知りたいことがいくつもございますので、これからもときどきお会いできますでしょうか」と言ってきた。ぼくはびっくりしたけど渡りに船でそれはぜひ、ということになった。
   次に会うのは6月2日。朝日新聞の近くのビアレストランで岩城さんと会ったとき、岩城さんが内ポケットから美智子さんが写った写真を取りだしてぼくと先輩遊軍記者のクリスミさん、栗田純彦さんに見せた。何と皇太子さまが撮影したもので、2月に美智子さんのところへ送られて来たのだそうで、「これはどういう意味なんでしょう」と聞いてきた。
   結果的に、これは前年の1957年10月に美智子さまと2回目のテニスを東京・調布でした皇太子さまが撮った、美智子さんの胸部から上のポートレート写真で、57年11月の宮内庁東宮の展覧会に皇太子さまが出品したものだった。

お2人がときおり一緒にテニスをしていることが判明

佐伯 この写真の話はともかく、年が明けて1958年の2月以降、皇太子さまも美智子さんも東京の同じテニスクラブに順次入会し、ときおり一緒にテニスをしていることも岩城さん情報で分かった。
   しかし、クラブ入会の話を知ってもぼくたち取材班の認識はまだ、岩城さん情報について「皇太子さまの恋人現るだな」と軽口をたたく程度だった。まさか民間からお妃とは......と半信半疑だった。ぼくだけは6割ぐらい、「民間からお妃」の可能性を信じ始めたというレベルかな。

――佐伯さんたち取材班はまだ手探り状態で、美智子さま情報もキャッチしたものの、まだ「入り口」といった印象ですね。美智子さま側も情報を知りたがっている段階。実際、お妃選びの客観情勢は、当時どこまで進んでいたのですか。

佐伯 当時は分からなかった。随分あとになって判明した話だけど、結論から言うと、1958年の5月2日の宇佐美毅・宮内庁長官邸会議で、お妃候補は美智子さんにほとんど一本化するという流れになっていた。あとは詰めの調査が必要だと。そして6月21日に、前に出てきたお妃選び首脳の小泉信三氏邸で選考首脳会議があり、大勢は美智子さんで行こうと決まっている。

記者の取材が事態進展の「触媒」になった?

――それでは、その2つの重要な会議の間の5月20日に、ちょうど佐伯さんによる正田家との初接触があったわけですね。

佐伯 そうなんだ。実はぼくが英三郎さんと会った翌日の5月21日には、正田夫妻は、面識が少しだけあった小泉さんに面会を申し入れ、5月22日に会っている。
   5月当時、すでにお妃選考の線上に美智子さんが浮かんでいるという噂は正田夫妻の耳に入っていた。しかし、噂レベルを根拠にまさか小泉さんに「うちの娘はお妃候補なのですか」とも聞けない。そこに朝日新聞記者のぼくが「有力候補だと聞いている」と取材に来たわけだ。実はこっちには詳しい情報はなく、はったりもまじった取材だったけど。
   これは正田夫妻にとっては、小泉さんに質問するいいきっかけになったようだ。しかし、5月22日の場では小泉さんは、「そんなことはない」というニュアンスで答えつつ、完全否定はしない、というあいまい戦術をとったようだ。正田夫妻はどう解釈していいか分からず途方に暮れて帰ってきたと、ほどなくして秘書の岩城さんからぼくは聞いている。
   小泉さんにとっても、正田家に関する周辺調査は興信所などを通じてすでにかなり重ねていたが、両親に会って直接、聞きたいこともあったようだ。縁談話の有無とかね。
   こうした情勢からみると、ぼくが知らないうちにぼくの取材が触媒となって、正田家とお妃選考首脳らとの間に連絡を取り合うチャンネルを開いた形だ。事態の進展にぼくが一役かったのかなあ、という気がしている。

<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>


(佐伯晋さんプロフィール)

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。

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