福沢諭吉も説いていた「はかなさ」を基点に震災・原発事故を考える
「震災と日本人」連載最終回

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   2011年7月2日、東北大学の「フッセル・アーベント」という哲学研究会に招かれ、「大震災と日本人」という話をした。「現象学」を提唱した哲学者フッサールにちなみ、毎年開かれている会合で、今回が35回目だという。

   この会で私が話したのは、「色は匂へど散りぬるを」といった「いろは歌」を一国のアルファベットとして千年以上にわたって歌い継いできた日本人の無常感は、まさに「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っている」(寺田寅彦)。が、その「はか‐ない」という感受性は、けっして単なる否定感情ではなく、「はか‐る」ことのできない、「はか‐どる」だけではない価値観や美意識を育ててきたものでもあって、そこには、「はかり」「はかどる」ことだけを目指してきた現代文明の突き当たっている壁を乗り超えるヒントがあるのではないか、ということである。

   哲学だけでなく理系の研究者も多かった会場との質疑では、現代文明の問題は「はかる」ことの過剰ではなくむしろ未熟にあるのではないか、「はかる」ことと「はかない」という感受性は共存できないのか、死者との関わりをどう考えるか、等々、その他、簡単には答えられない大きな問題がいくつも出された。

   原発事故は、むろん「はかる」ことの未熟さの露呈であるし、復旧・復興はスピーディに効率よく「はかどる」ことが求められている。が、そのことと、「はかない」という感受性は、二者択一的に対立するものではない、近代日本に「学問のすすめ」を説いた福沢諭吉は、まずもって人間の「はかなさ」を基点にものを考えていた。また、「はかなさ」とは、何より死あるいは死者への感受性である、などと答え、予定の3時間があっという間に過ぎた。私にとっては、まさに実り多い一夕(アーベント)であった。

何がよいありかたなのか 「倫理」をめぐる対話

   この議論は、日本人のこれまでと、これからの「倫理」をめぐる対話であった。

   倫理の倫とは、人倫、人の間、仲間、ともがらという意味であり、理とは、すじ目、ありよう、ことわり(道理)という意味である。すなわち倫理とは、他の人と共に生きるという人‐間の「よき」ありよう、ことわりということである。人はだれでも、より「よく」ありたいと思い、願う。その「よさ」とは何か、ということを、そもそも、世の中とはどういうものか、人間とは、人生とは何か、といった、より根本的な問いに立ちかえって考えることであるといっていい。

   われわれは、このたびの大震災や原発事故で、いやおうなく文明とは何か、自然とは何か、人間とは、人生とは、といった問いの前に立たされている。そしてその問いは、われわれにとって、あらためて、何がどうあることがほんとうに「よい」あり方なのかという問いにつながってくる。

   「あらためて」には、あえて分ければ、「事あらたに、新しく」という意味と、「もう一度、改めて」という意味がふくまれている。前者に比重をおいていえば、今問われているのは、現代に特有の新しい問題としての、科学や文明のあり方、それに基づいた社会や生活のあり方への問いである。科学や文明もそれ自体、より「よさ」を追求してきたはずであるが、しかし、ひたすら便利・安全・効率を求める、その新しい「よさ」は、けっして十全の「よさ」ではなかった。原発のみならず、さまざまな環境倫理や生命倫理の問題は、その問題をきちんと問うことなくしては、文明学者・梅棹忠夫の言い方をかりれば、「あかん。破滅や」というような事態を招来してしまう深刻な問題なのである。

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