あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
社長退任の後の2、3年間、日本のADSLの草分けとなった東京めたりっく通信のあの苛烈な体験を本にしてみないかと多くの出版人に勧められた。
2001年から開始されたNTTとソフトバンクとの間に繰り広げられたあの激烈なADSL戦争の勃発原因の当事者の発言は、「事件」的な扱いとして出版社の意向に適うものだったのだろう。
しかし退任後にソフトバンク文化に反発する東京めたりっく通信社員を収容する「起業三昧(株)」を起業し、さらに、2002年には古巣の(株)数理技研の社長に復帰し、中小企業経営者としての多忙な生活に没入してからは物を書く余裕はまったく生まれなかった。
2007年の6月に(株)数理技研を新しい成長軌道に乗せることができ、社長職を後任の小川君に引き取ってもらい会長に退くこととなって、やっと物を書く条件が整った。着手は秋になっていたが、しかし原稿用紙に向ったとき、6年という時間経過がもたらした断絶の大きさに愕然とした。記憶は大分あやしくなり、資料の散逸も甚だしく、私1人では断想は記せても物語としての正確さは期せないことは明らかだった。
そこで現在は別々の場にいるが、日常的な接触の多い、本文中に登場する諸君を誘い、何回か編集会議風の打合せを開き、事実関係の思い起こしと整合とを図った。この助力によって起承転結をもった執筆を晩秋には終了することができたのである。
しかし、本を出してみようという出版社は現れなかった。商業的には引き合わないらしい。旬はとうに過ぎて時代的に熱いテーマではない。アーカイブを伝統的に軽視する日本出版文化のなかでは、今後も連載の出版を期待することは困難であろう。まして、個人名や組織名が飛び交う「暴露本」的な原稿の性格は、出版企画を逡巡させる一因でもあったようだ。逆説的に、いわゆる暗黙の「検閲」からの自由を獲得することとなった。
記事はプロフェッショナルな編集工程を経たものでなく、事実関係の実証も心ならずも不十分のままである。多くの記憶違いや誤解も残されているだろう。誤記も避けられない。しかし完璧を期することに執心はしなかった。大雑把でもよいから、風化し記憶の海に沈んでしまう前に事実を活字にしておくことを第一の重要事と考えた。したがって、いわゆる商業的出版物のような快適さを読者に提供することはできない。そのかわり、もし事実に反する記述があれば訂正にやぶさかではない。この連載に寄せられた多くのコメントはまさにその一端であり、感謝したい。
革命や大きな変革は一朝一夕でなるものではないことはいうまでもない。したがってその一画に連なろうという志は、流れる時間を持たねば本物とは言えない。
流れる時間には、夢と希望が高く舞う頌歌と滅びの鎮魂歌がつきものだ。「東京めたりっく通信物語」が果たして頌歌であるのか鎮魂歌であるのか、はたまた予期せぬ旋律をもつものであるのか、これは筆者には分かろうはずはない。言葉は発されたとたんに、個人を離れるからだ。願わくば、流れる時間の中に在って、価値ある叙述であらんことを祈るのみだ。
このベンチャーに込めた私の思いを新約聖書の一説でつづる。
一粒の麦死なずばそのままにてあらん、
死なば、多くの実をむすぶべし
(ヨハネによる福音書12章より)
(了)
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。